虹の頃と愛子の最期
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愛子の病状が進むと、森田家はすでに戦争の影響で傾いてため、愛子の治療のために、柏翠は身辺の物を処分し、ロジノン(ブドウ糖の注射液)を入手した。1943年(昭和18年)11月、高浜虚子は各地の句会に出席するための旅の途中に、三国を訪れ愛子を見舞う。永平寺を参拝し句会をした後、虚子は愛子と愛子の母、柏翠、坪内美佐尾を山中温泉「よしのや」での句会に招待する。その宴席で、愛子母娘が歌い踊った。虚子は、病身でか細い愛子と愛子の母が歌い踊るのをみて、涙があふれ出たそうだ。虚子はよしのやの箸袋に「不思議やな汝が踊れば我等泣く 虚子」と句をかいた。山中温泉から虚子を敦賀まで見送る途中に、虹が立つのを見たことが、「虹物語」の発端となる。1946年(昭和21年) 8月には、愛子の病状がさらに進み寝たきりになる。虚子は愛子を見舞い、「虹」の原稿を読み聞かせる。1947年(昭和22年) 4月1日午後4時50分、愛子は結核のため、29歳4か月で死去。愛子の墓は、寿福寺(鎌倉)、月窓寺(三国)、性海寺(三国。森田家の菩提寺)、高野山奥の院の4カ所にある。寿福寺の墓の「森田愛子の墓」という文字は、高浜虚子がかき、墓標は高浜虚子の墓の方へ向けて建てられた。数年で木が腐ったため、石の墓を建てた際の墓の文字は伊藤柏翠がかいた。愛子の命日である4月1日には、月窓寺、滝谷寺などにて愛子忌が営まれる。
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