虎造ブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 10:03 UTC 版)
「広沢虎造 (2代目)」の記事における「虎造ブーム」の解説
1926年(大正15年)5月30日ラジオ初放送。演目は「次郎長と勝蔵」。虎造を一躍有名にしたのは、既に次郎長伝を皮切りにラジオに出演し、売り出し中のこの時期に、自身も巻き込まれた交通事故である。1933年(昭和8年)、世田谷碑文谷の電車踏切で、寄席掛け持ちのため一行が移動中のタクシーが電車と正面衝突、虎造のマネージャーが即死、運転手の助手も危篤、運転手は2週間の重傷、虎造も瀕死の重傷を負うものの、命は助かった。この事故を新聞各紙が報道する。その後、1938年(昭和13年)後楽園球場で独演会を開くなど、その名調子は虎造節として一世を風靡、また戦前から映画に積極的に出演し、劇中でしばしば浪花節を演じていた(タナ読み、節劇から映画出演に流れた形式)。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}映画出演に関して吉本興業のマネジメントを受けるだけでなく、浅草花月など当時吉本が東京に持っていた多くの劇場にも出演、半ば吉本の専属状態となっていた。当時の出演映画には、出演者として「廣澤虎造(吉本興業提供)」とクレジットされているものもある(『エノケン・虎造の春風千里』など)[要出典]。1940年(昭和15年)晩夏、広沢虎造映画出演問題を巡っての、浅草田島町殺傷事件は、浪曲家の伝統生活中の、最も悪質に属する部分のあらわれと見てよい[誰によって?]。
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