蒋奇とは? わかりやすく解説

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蔣奇Jiang Qi

ショウキ
シヤウキ

(?~?)

袁紹の将。

建安五年(二〇〇)八月袁紹官渡において曹操軍対峙した。にらみ合い百日余り続き南方人々困窮して袁紹方に寝返る者が多かった。そこで袁紹淳于瓊らに一万人を率いさせ、北方から搬送される食糧護送させることにした。このとき沮授が「蔣奇を別働隊として、曹操襲撃備えるべきです」と説得したが、袁紹聞き入れなかった。その結果淳于瓊曹操攻撃受けて敗死した《袁紹伝・後漢書同伝》。

沮授白馬包囲戦に際して顔良性急さを指摘して単独任用すべきでない主張している。その沮授推薦しているのだから、蔣奇はよほど優れた武将であったのだろう。

官渡袁紹軍も大潰滅し、審配の子二人曹操軍捕らえられた。孟岱という人は審配と仲が悪く、蔣奇に言い含めて審配専政できる地位にあり、一族大身軍勢も強力です。しかも子息二人南方にいるのですから必ず叛意抱きましょう」と袁紹言上させた。郭図辛評同調したので袁紹審配罷免ようとしたが、逢紀弁護より取り止めている《後漢書袁紹伝》。

参照袁紹 / 郭図 / 淳于瓊 / 沮授 / 辛評 / 審配 / 曹操 / 逢紀 / 孟岱 / 官渡


蔣奇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/04 06:08 UTC 版)

蔣 奇[1](しょう き、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。

正史の事跡

姓名 蔣奇
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
出身地 〔不詳〕
職官 〔不詳〕
爵位・号等 -
陣営・所属等 袁紹
家族・一族 〔不詳〕

袁紹の部将。その事跡は、官渡の戦い前後についてのみ残されている。

建安5年(200年)10月、官渡の戦いの終盤戦において、袁紹は都督淳于瓊に食糧を守備するよう命じ、淳于瓊は烏巣に駐屯した。この時、袁紹の参謀にして都督である沮授は、蔣奇に別働隊を率いさせ、事前に淳于瓊と連動して曹操の奇襲に備えるよう袁紹に進言したが、受け入れられなかった。その結果、烏巣は陥落し、袁紹は曹操に大敗を喫したのである。

この敗戦後、蔣奇は同僚の孟岱と共に、日頃から仲が悪かった同僚の審配を袁紹に讒言し、失脚させた。これにより孟岱は監軍に取り立てられているが、蔣奇は如何なる官職についたかは不明である。結局その後、逢紀の弁護もあって審配は復権した。これ以降、蔣奇と孟岱は史書から姿を消す。

物語中の蔣奇

小説『三国志演義』では、曹操軍が烏巣へ奇襲に向かう際に、許攸の薦めで蔣奇の軍勢に仮装して、見事に袁紹の陣をすり抜けている。本物の蔣奇は、烏巣が炎上した後に袁紹の命令で救援に向かうが、今度は淳于瓊の敗軍に仮装した曹操軍を怪しみもせず合流させてしまう。その結果、軍中に紛れ込んでいた張遼により、蔣奇は一刀の下に斬り殺されてしまっている。

関連項目

参考文献

脚注

  1. ^ 蒋奇と表記されることも多い。


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