蔣尊禕
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蔣尊禕 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925)
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プロフィール | |
出生: | 生年不明[注 1] |
死去: | 不明(1942年10月時点では存命) |
出身地: | ![]() |
職業: | 官僚 |
各種表記 | |
繁体字: | 蔣尊禕 |
簡体字: | 蒋尊禕 |
拼音: | Jiǎng Zūnyī |
ラテン字: | Chiang Tsun-i |
和名表記: | しょう そんい |
発音転記: | チャン・ツンイー(ジャン・ズンイー) |
蔣 尊禕(しょう そんい、生没年不明)は、清末民初の官僚。字は彬侯[1][3]、賓侯[3]、彬信[2]。清末から出仕していた官僚で、北京政府では交通部電信部門の要職を歴任した。後に中華民国臨時政府に加わったが、目立った活動は無かった。
事績
清朝・北京政府での活動
光緒甲辰科(旧暦:光緒30年)の進士。清朝では郵伝部で各職を歴任し、主に電信部門を担当した。また、1911年(宣統3年)には北京と南京でラジオ局を設立している[2]。
中華民国成立後は北京政府に入り、清朝同様に電信部門を担当するため交通部で任用を受けた。1914年(民国3年)に交通部司長となり、1916年(民国5年)8月14日には得意分野の電政司で司長に任命された。以後、北京政府が存続していた時期(1928年(民国17年)まで)において、祝書元と交替しながら交通部電政司司長(最末期は電政督弁)の地位にあり続けている。その他にも、電気技術委員会会長や交通大学幇同籌弁事宜、魯案(山東問題)善後交通委員会理事、電政会計委員会会長などを兼ねた[4]。
親日政権での境遇
王克敏らが中華民国臨時政府を北京で樹立すると、蔣尊禕もこれに参加し、1938年(民国27年)1月1日、振済部(部長:王揖唐)振済局局長に任命された。同年10月22日、振済部が廃止されると、内政部参事兼振務委員会委員に移った[5]。これらの地位は、北京政府での蔣の経歴を考えれば、冷遇と言っても差支えないものであった[注 2][注 3]。
1940年(民国29年)3月30日に臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流して華北政務委員会に改組されると、蔣尊禕は内務総署参事に重任された模様である[6]。1942年(民国31年)5月8日に華北政務委員会審査資歴委員会委員を兼任しているが[7]、政治的地位の低調ぶりは臨時政府時代と同様であった。それ以外では、華北合作事業総会理事[8]や北京古学院哲理研究会会員[3]などをつとめている。
1942年10月時点での存命は確認できるが、それ以降の動向や行方は不詳である。
注釈
- ^ 1876年から1878年の間で諸説ある。外務省情報部編(1937)、177頁は「1876年生」、Who’s Who in China 3rd rd.(1925), p.174は「1877年生」、橋川編(1940)、706頁は「1878年生」としている。
- ^ 臨時政府の『政府公報』第55号(民国28年1月26日)に次長級以下臨時政府官僚に対する俸給の等級一覧が掲載されており、蔣尊禕は「二等四級」となっている(24頁)。旧・振済部においては夏清貽や雷寿栄らと同等同級であり、姚国楨が「一等一級」であったのに比べると明らかに見劣りする。また、似た経歴の祝書元は「一等三級」であり、これと比べても低位である。ちなみに「一等一級」の人物は、姚に加えて方宗鰲・王永泉・黎世蘅の計4人がいる。
- ^ 橋川編(1940)、706頁は、臨時政府存続中に蔣尊禕が内政部参事を辞任して北京に隠棲した、と誤記している。しかし、そのような誤記を生むほど、蔣の境遇は不振であったこともうかがえる。
出典
- ^ a b 外務省情報部編(1937)、177頁。
- ^ a b c Who’s Who in China 3rd rd.(1925), p.174.
- ^ a b c d 橋川編(1940)、706頁。
- ^ 中華民国政府官職資料庫「姓名:蔣尊褘」
- ^ 臨時政府令、令字第289号、民国27年10月22日(『政府公報』第40号、民国27年10月24日、臨時政府行政委員会公報処、2頁)及び臨時政府令、令字第290号、民国27年10月22日(『政府公報』第41号、民国27年10月31日、臨時政府行政委員会公報処、1頁)。
- ^ 『六大新報』第1928号、昭和16年6月29日、22頁。
- ^ 華北政務委員会令 会字第516号己 民国31年5月8日(『華北政務委員会公報』第147・148期合刊、民国31年6月29日、華北政務委員会政務庁情報局、本会1頁)。
- ^ 『支研経済旬報』6巻30・31号通号189・190号、昭和17年10月21日号、支那問題研究所、34頁。
参考文献
- 蔣尊禕のページへのリンク