解樹強
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/13 18:02 UTC 版)
解樹強 | |
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プロフィール | |
出生: | 1878年[1][注 1] |
死去: | 没年不明(1938年9月時点では存命) |
出身地: | ![]() |
職業: | 政治家・官僚 |
各種表記 | |
繁体字: | 解樹強 |
簡体字: | 解树强 |
拼音: | Xiè Shùqiáng |
ラテン字: | Hsieh Shu-ch'iang |
和名表記: | かい じゅきょう |
発音転記: | シエ・シューチアン |
解 樹強(かい じゅきょう、1878年 - 没年不明)は、中華民国の政治家・官僚。字は斐青[1][3]。北京政府時代には国会議員として活動。後年、中華民国臨時政府に参加するも、短期間で姿を消した。
事績
清末に日本へ留学し、1911年(宣統3年/明治44年)に早稲田大学大学部政治経済学科を卒業[4]。帰国後の1913年(民国2年)に江蘇省選出の第1期参議院議員となり[5]、憲法起草委員も兼ねた[6]。政党は共和党[2]や進歩党、民憲党などに所属している[6][7]。袁世凱による国会解散後は、いったん下野して江蘇省立法政専門学校教務長となった[1][2]。
袁世凱死後に解樹強は国会へ復帰し[5]、黄雲鵬と共に憲政商榷会系の平社という政団を率いた[6][8]。本来は反政府(官僚)派のはずだったが、靳雲鵬との関係があったため、政府派へ寝返ったという[8]。1917年(民国6年)にいったん下野したと見られるが、1922年(民国11年)から1924年(民国13年)にかけての第2次回復国会では、参議院議員として返り咲いた[5]。しかし、1920年代半ば以後になると、解の活動はほぼ見当たらなくなる。
王克敏が中華民国臨時政府を創立すると、解樹強は直ちに参加した。1938年(民国27年)1月1日、振済部(総長:王揖唐)恤養局局長に任命され[3][9][10]、10年以上ぶりに政界復帰を果たす。
ところが同年9月18日に振済部が廃止されると、解樹強は他の部局での任用が見受けられず、そのまま消息不明となった。
注釈
- ^ 外務省情報部編(1928)は、昭和3年(1928年)時点で「51歳」としている。いったん、これに従い数え年換算から「1878年生」とみなす。
出典
参考文献
- 解樹強のページへのリンク