田原禎次郎とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 田原禎次郎の意味・解説 

田原禎次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/04 02:40 UTC 版)

田原 禎次郎(たわら ていじろう[1][2]、生年不明[注 1] - 1923年〈大正12年〉)は、明治から大正にかけての翻訳者・文筆家・ジャーナリスト。号は天南後藤新平の知己であり、ドイツ語文献の翻訳や中国事情に関する書籍を刊行した。

事績

山形県西村山郡谷地町(現・河北町)に生まれる[1][3][注 2]仙台で岡万里(岡麑泉)の下で漢学を修め、次いで東京に出て愛宕下の岡千仭(岡鹿門)私塾「綏猷堂」で学んだ。さらに本郷台町の独逸学校や神田区小川町の獨逸学協会学校[注 3]でドイツ語を学ぶ。独逸学協会学校では普通科・専修科の両科を卒業した[3]

1900年(明治34年)、『台湾日日新報』の招聘に応じて台湾へ渡り、記者・編集長・主筆となる[3][注 4]。翌年からは、旧知である社長・守屋善兵衛の相談相手として社内で台頭し、和文部を切り回すようになったとされる[4]。また、この時に台湾総督府長官・後藤新平に認められ、終生交流することになる[1]

1904年(明治37年)、ブレスニッツ・フォン・シダコッフ[注 5]著『露国の闇黒面』を民友社から翻訳・刊行し、明治天皇に献上した[1]。シダコッフの訳書については、国粋主義刊行物を主力とする民友社と博文館から3作が出された。以後、田原による著述・翻訳活動は盛んになっていく。1909年(明治42年)から1915年(大正4年)にかけて実施された『谷地町志』編纂事業にも協力した[5]

1910年(明治43年)、ドイツのベルリンなど欧州各国を遊学する。同年、『満洲日日新聞』に入ると副主筆から主筆に進み、更に取締役となる[3]1918年(大正7年)10月[注 6]、森川照太・橘樸らと共に天津にて『京津日日新聞』を創刊したが[6][7]1919年(大正8年)2月に田原は退社し、森川単独の経営となった[8][注 7]。同年、パリ講和会議に出席し、その後も欧州にて無産政党の思想や行動を研究したとされる[1]

帰国後、台湾統治史を編纂していたが、その最中の1923年(大正12年)に死去[1]

著作

〔著作・編纂〕

〔口述〕

  • 『蒙古征欧史』(台湾日日新報社、1905年)

〔翻訳〕

  • ブレスニッツ・フォン・シダコッフ『露国の闇黒面』(民友社、1904年)
  • (ブレスニッツ・フォン・)シダコッフ『光栄之日本』(博文館、1905年)
  • ブレスニッツ・フォン・シダコッフ『露国皇室の内幕』(民友社、1905年)

〔遺稿〕

  • 田原丈夫『天南遺稿』(1923年)

注釈

  1. ^ 山形放送株式会社・山形県大百科事典事務局編(1983)、604頁は「1864年〈元治元年〉生」、今田編(1922)、143頁は「1868年〈明治元年〉11月7日生」、島田(1976)、187頁は「(1869年)〈明治2年〉12月」生まれとしている。
  2. ^ 島田(1977)、187頁は「仙台市の生まれ」としているが、誤りと見られる。
  3. ^ 今田(1923)、143頁は「独逸教会」としているが、山形放送株式会社・山形県大百科事典事務局編(1983)、604頁の記述に従い修正する。
  4. ^ 今田編(1922)、143頁と山形放送株式会社・山形県大百科事典事務局編(1983)、604頁は共に「台湾日日新」と記し、更に前者は田原を同紙創設者のような扱いをしているが、いずれも明確に誤りのため訂正する。
  5. ^ この人物の素性については詳細不明。後藤新平が著した『露国皇室の内幕』序によれば「独逸人」とあるが、『光栄の日本』宣伝広告によると「波蘭の志士」となっている。
  6. ^ 後年の『新聞総覧』(昭和十年など)で「大正6年」とされているが、別資料との照会・検討のうえで、いったん「大正7年」とする。なお、『新聞総覧 大正十年』は創刊日を10月30日、山本(1977)は10月31日としている。
  7. ^ 山形放送株式会社・山形県大百科事典事務局編(1983)、604頁は「北京で1914年(大正3年)に創刊」としているが、誤りと見られる。

出典

  1. ^ a b c d e f 山形放送株式会社・山形県大百科事典事務局編(1983)、604頁。
  2. ^ 国立国会図書館著者名典拠録 明治以降日本人名 下巻』、1979年、2566頁。
  3. ^ a b c d 今田編(1922)、143頁。
  4. ^ 島田(1976)、187頁。
  5. ^ 河北町誌編纂委員会編『河北町の歴史 中巻』河北町、1007-1008頁。
  6. ^ 山本(1977)、47-48頁。
  7. ^ 蛯原(1936)、273頁。
  8. ^ 『新聞総覧 大正十年』日本電報通信社、1921年、974頁。

参考文献

  • 山形放送株式会社・山形県大百科事典事務局編『山形大百科事典』山形放送、1983年。 
  • 今田醒民編『山形名家録』山形名家録編纂局、1922年。 
  • 山本秀夫橘樸中央公論社、1977年。 
  • 蛯原八郎『海外邦字新聞雑誌史』学而書院、1936年。 
  • 島田謹二『日本における外国文学 比較文学研究 下巻』朝日新聞社、1976年。 



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  田原禎次郎のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

田原禎次郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



田原禎次郎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの田原禎次郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS