田原禎次郎
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田原 禎次郎(たわら ていじろう[1][2]、生年不明[注 1] - 1923年〈大正12年〉)は、明治から大正にかけての翻訳者・文筆家・ジャーナリスト。号は天南。後藤新平の知己であり、ドイツ語文献の翻訳や中国事情に関する書籍を刊行した。
事績
山形県西村山郡谷地町(現・河北町)に生まれる[1][3][注 2]。仙台で岡万里(岡麑泉)の下で漢学を修め、次いで東京に出て愛宕下の岡千仭(岡鹿門)私塾「綏猷堂」で学んだ。さらに本郷台町の独逸学校や神田区小川町の獨逸学協会学校[注 3]でドイツ語を学ぶ。独逸学協会学校では普通科・専修科の両科を卒業した[3]。
1900年(明治34年)、『台湾日日新報』の招聘に応じて台湾へ渡り、記者・編集長・主筆となる[3][注 4]。翌年からは、旧知である社長・守屋善兵衛の相談相手として社内で台頭し、和文部を切り回すようになったとされる[4]。また、この時に台湾総督府長官・後藤新平に認められ、終生交流することになる[1]。
1904年(明治37年)、ブレスニッツ・フォン・シダコッフ[注 5]著『露国の闇黒面』を民友社から翻訳・刊行し、明治天皇に献上した[1]。シダコッフの訳書については、国粋主義刊行物を主力とする民友社と博文館から3作が出された。以後、田原による著述・翻訳活動は盛んになっていく。1909年(明治42年)から1915年(大正4年)にかけて実施された『谷地町志』編纂事業にも協力した[5]。
1910年(明治43年)、ドイツのベルリンなど欧州各国を遊学する。同年、『満洲日日新聞』に入ると副主筆から主筆に進み、更に取締役となる[3]。1918年(大正7年)10月[注 6]、森川照太・橘樸らと共に天津にて『京津日日新聞』を創刊したが[6][7]、1919年(大正8年)2月に田原は退社し、森川単独の経営となった[8][注 7]。同年、パリ講和会議に出席し、その後も欧州にて無産政党の思想や行動を研究したとされる[1]。
帰国後、台湾統治史を編纂していたが、その最中の1923年(大正12年)に死去[1]。
著作
〔著作・編纂〕
〔口述〕
- 『蒙古征欧史』(台湾日日新報社、1905年)
〔翻訳〕
- ブレスニッツ・フォン・シダコッフ『露国の闇黒面』(民友社、1904年)
- (ブレスニッツ・フォン・)シダコッフ『光栄之日本』(博文館、1905年)
- ブレスニッツ・フォン・シダコッフ『露国皇室の内幕』(民友社、1905年)
〔遺稿〕
- 田原丈夫『天南遺稿』(1923年)
注釈
- ^ 山形放送株式会社・山形県大百科事典事務局編(1983)、604頁は「1864年〈元治元年〉生」、今田編(1922)、143頁は「1868年〈明治元年〉11月7日生」、島田(1976)、187頁は「(1869年)〈明治2年〉12月」生まれとしている。
- ^ 島田(1977)、187頁は「仙台市の生まれ」としているが、誤りと見られる。
- ^ 今田(1923)、143頁は「独逸教会」としているが、山形放送株式会社・山形県大百科事典事務局編(1983)、604頁の記述に従い修正する。
- ^ 今田編(1922)、143頁と山形放送株式会社・山形県大百科事典事務局編(1983)、604頁は共に「台湾日日新聞」と記し、更に前者は田原を同紙創設者のような扱いをしているが、いずれも明確に誤りのため訂正する。
- ^ この人物の素性については詳細不明。後藤新平が著した『露国皇室の内幕』序によれば「独逸人」とあるが、『光栄の日本』宣伝広告によると「波蘭の志士」となっている。
- ^ 後年の『新聞総覧』(昭和十年など)で「大正6年」とされているが、別資料との照会・検討のうえで、いったん「大正7年」とする。なお、『新聞総覧 大正十年』は創刊日を10月30日、山本(1977)は10月31日としている。
- ^ 山形放送株式会社・山形県大百科事典事務局編(1983)、604頁は「北京で1914年(大正3年)に創刊」としているが、誤りと見られる。
出典
参考文献
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