及川恒忠
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及川 恒忠(おいかわ つねただ、1890年〈明治23年〉9月6日[1] - 1959年〈昭和34年〉1月10日[2])は、大正・昭和の中国政治史学者・中国経済学者・翻訳家。慶応義塾大学法学部教授(後に部長)であり、私立武蔵高等工科学校(現在の東京都市大学)創立にも関わった。
事績
本籍は岩手県花巻市だが、当時の住所であった東京市荏原郡駒沢町上鳥に生まれる[1]。祖先には、花巻で儒学の学問所「豊水亭」を開いた及川華山(祐忠)がいる[3]。
1908年(明治41年)3月、宮城県立仙台第二中学校を卒業、翌月に慶應義塾大学部予科第一学年に入学した[4]。1913年(大正2年)3月に慶應義塾大学部政治科を卒業、翌月、そのまま同大学の助手となった。1917年(大正6年)4月、中国事情調査のため中国へ2年間留学し、1919年(大正8年)4月からは欧州へ更に留学している[4]。
帰国後の1920年(大正9年)4月、慶應義塾大学法学部教授兼経済学部教授に就任した[1][4][5]。両学部では「支那法制論」「東洋外交史」「支那経済論」の講座を担当している[4]。1922年(大正11年)、法学部の機関誌『法學研究』の創刊に参与した。1926年(大正15年)、実業家・望月軍四郎の寄付により「望月支那研究基金」が慶應義塾大学に設立されると、及川が運営者として研究を指導している[5]。
慶應義塾大学で教鞭をとる傍ら、1929年(昭和4年)には東京高等工商学校でも非常勤講師をつとめる。同年、東京高等工商学校の学内紛糾により教員・学生の離脱が起きると、離脱派の要請を受けて及川は学校の新設に邁進した。その結果、私立武蔵高等工科学校(現在の東京都市大学)が設立されている。なお及川は、2025年現在の東京都市大学において創立者の1人として数え上げられている[6]。
1942年(昭和17年)4月、慶應義塾大学法学部長に昇進し、1946年(昭和21年)2月まで4年間在任した。1950年(昭和25年)、同大学評議員を兼任する[1]。
1959年(昭和34年)1月10日、慶應義塾大学教授在任のまま、肺気腫のため慶應義塾大学病院にて死去。享年70(満68歳)[2]。
作品
〔著作〕
- 『支那経済事情』(時事新報社出版部)
- 『支那政治組織の研究』(啓成社、1933年)
- 『支那の幣制』(慶應出版社、1944年)
- 『中国政治史』(慶應通信、1955年)
〔翻訳〕
- 「支那童話集」『世界童話大系 第15巻』(世界童話大系刊行会、1927年)※編訳。現代思潮社版(1977年)もある
- 『支那童話集』(近代社、1929年)
- 『最近支那政治制度史 上』(銭端升著〈原題:『民国政制史 上冊』〉、慶應出版社、1943年)
注釈
出典
参考文献
- 佐藤昭孝「及川華山(祐忠)家の業績」『花巻市文化財調査報告書 第22集 (花巻市文化財調査報告書)』花巻市、1996年。所収、61-71頁。
- Bibliographical Database of Keio Economists(坂本慎一執筆部分)
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