荒野およびスポットシルバニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/23 04:43 UTC 版)
「リチャード・H・アンダーソン」の記事における「荒野およびスポットシルバニア」の解説
1864年春、荒野の戦いではロングストリートが重傷を負い、アンダーソンが指揮を代わってオーバーランド方面作戦の間指揮を執り続けた。荒野の戦いの後、スポットシルバニア・コートハウスの戦いでは、アンダーソンがうまく戦った。アンダーソンとその師団は5月7日に終夜の強行軍を行い重要な陣地を確保し(既にそこに送っていた南軍騎兵を補強した)、北軍部隊がそこに到着する直前にそこを占領した。その地点に到着して守ることで、北軍がリー軍を回りこんでリッチモンドに向かうことを阻止した。アンダーソンは5月8日から12日までの激闘も持ち堪えた。 アンダーソンは続いて6月初めのコールドハーバーの戦いに参戦し、6月半ばから10月にかけてピーターズバーグの南での北バージニア軍残り部隊による作戦に加わった。5月31日には一時的に中将に昇進した。 ロングストリートが1864年10月19日に治療から戻ってくると、アンダーソンは元の少将の位に戻されたが、新しく作られた第4軍団を率いて、ピーターズバーグ包囲戦から1865年のアポマトックス・コートハウスへの撤退まで戦った。北軍騎兵隊による数回の攻撃でその軍団は弱っていったために、アンダーソンの動きは鈍くなり、何度も停止して攻撃を跳ね除けなければならなかった。このことで西に移動するリー軍の残りとは孤立するようになり、このとき軍全体の後衛になっていた。第4軍団は遂に停止して4月6日のセイラーズクリークの戦いに入り、壊走で終わった。リーはこの光景を目撃し、「軍隊は分解してしまったのか?」と叫んだ。軍団の生き残りが再結集し、4月8日に第3軍団の残りが第2軍団に吸収された軍隊に合流した。このことでアンダーソンには指揮する部隊が無くなり、サウスカロライナ州の故郷に帰った。アンダーソンは1865年9月27日に恩赦を受けた。ただし仮釈放の記録は無い。
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