芝山監物とは? わかりやすく解説

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芝山監物

読み方しばやま けんもつ

安土・桃山時代武将茶人利休七哲一人。初名は俊一通称源内、号は宗綱。初め織田信長仕え、のち豊臣秀吉に従う。利休から贈られ長次郎作の黒楽盌「雁取」は名物として知られ、また愛用因んだ芝山手水鉢芝山緞子などにもその名を残している。

芝山宗綱

(芝山監物 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/27 05:41 UTC 版)

 
芝山 宗綱
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 不明
改名 俊一(初名)→宗綱
別名 柴山宗綱、通称:源内、監物
主君 荒木村重?→織田信長豊臣秀吉
氏族 芝山氏
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芝山 宗綱(しばやま むねつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将利休七哲の一人。芝山監物とも。

生涯

出自は不明だが、一説に摂津国小部付近[1]に勢力を持っていた向氏(橘遠保を遠祖とすると自称)の一族とされる[2]

はじめ石山本願寺の勢力下に属したが、荒木村重らと共に織田信長に接近した。天正6年(1578年)に村重が反旗を翻した際に、摂津大和田城に安部良成らと駐屯していたが、揃って村重の下を離れ信長に帰順し、信長から黄金を賜ったといわれる[3]。のちに羽柴秀吉馬廻となり、軍目付などとして小田原征伐にも従軍し、天正16年(1588年)に後陽成天皇聚楽第行幸の際に先導役を務めたとされる。のち、御咄衆として1万石を給せられた。

茶人としても知られ、千利休の高弟である利休七哲に数えられる。天正9年(1581年)には津田宗及山上宗二らを招いて茶会を行なっており、既に茶人として名が知られていたようである。利休とは懇意であったようで、長次郎作の名物黒楽茶碗「雁取」を贈られている他、現在確認されている利休の書簡のうち監物(宗綱)宛が一番多く、また利休最期の書簡も監物宛である。また、芝山型の手水鉢や芝山緞子などに茶道具にもその名を残している。

脚注

  1. ^ 現在の兵庫県神戸市北区
  2. ^ 他説に宇多源氏佐々木氏説、尾張国海東郡芝山の出自説などがある。
  3. ^ 信長公記』第十一巻より


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