舟倉町と水運
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 22:56 UTC 版)
東郷の地頭仮屋が置かれた往還沿い(現在の国道267号旧道)の地区は「舟倉」と称されていた。舟倉町は川内川と樋渡川が合流している付近にあり、内陸交通や水運交通の要地となっていた。 1884年(明治17年)に船倉が独立して舟倉町となったとされる。同年頃の東西5町、南北1町10間にわたる街並みを形成していた。県地誌によれば和船が14隻あったとされる。大正時代末期の宮之城線開通やバスの運行が開始されるまでは川内川を利用した水運が利用されており、舟倉の渡船場は藤川(現在の東郷町藤川)方面からの荷物で賑わい、憩いの場所として蕎麦屋や豆腐屋等が繁盛したという。 舟倉には川薩でも屈指の豪商として知られた商家の田代家があり、田代小路と呼ばれる通りが川内川に突き当たる場所に船着き場が置かれた。田代家は明治時代になると、鹿児島の商人である岩元善兵衛に士族から買い取った金禄公債を売り渡したり、5,000円を借り入れたりと経営が苦しい状態となっていた。田代氏は山形屋から暖簾分けを許され、川内の向田町に山形屋川内支店を開き、1963年(昭和38年)に閉店するまで向田の地で商売を営んでいた。
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