自殺とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/10 23:46 UTC 版)
「アレクサンドル・チェルヴャコフ」の記事における「自殺とその後」の解説
大粛清の最中、1937年6月16日にミンスクで開催された第16回党大会 (be) の席上において、チェルヴャコフは白ロシア・コムソモール (be) 中央委第一書記アレクサンドル・アヴグスタイチス (be) から「警戒心の欠如から人民の敵(ロシア語版)に融和的な態度をとり」、「自己批判をしようがしまいが、自己の責任をとっていないことに変わりはない」との批判を受けた。 同日午後、大会の休憩時間中、チェルヴャコフは中央執行委議長の執務室で拳銃自殺を遂げた。連邦中央執行委議長、白ロシア共和国中央執行委議長および白ロシア共産党中央委局員に在職中の死であった。 誰もが私から離れていった。私に投げかけられているのは、二心ある、不合理極まる非難だ…… — チェルヴャコフの遺書 夕方から続行された大会で、党中央委第一書記ヴァシリー・シャランゴヴィチはチェルヴャコフが「個人的理由」から「反党行為」である自殺に及んだと発表した(シャランゴヴィチは同月14日の時点で、チェルヴャコフがポーランドのスパイであるとの「告発」をヨシフ・スターリンに送っていた)。自殺の動機は、公式には「家庭の事情」と報道された。 チェルヴャコフはミンスクの軍人墓地(ベラルーシ語版)に葬られ、1957年には名誉回復(ロシア語版)がなされた。チェルヴャコフの名はミンスクの通りや路地、故郷プホヴィチ地区(ロシア語版)の中等学校に付けられた。中等学校にはチェルヴャコフの博物館も併設されている。
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