能の普及について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 03:54 UTC 版)
当時盛んに叫ばれていた能の大衆化、といった問題について、左近は一般には保守的な立場と見なされていた。左近は「能は映画やレヴユーの様に、誰が見ても面白く、すぐ分ると云つた性質のものではないから、大衆化といふことは無理だと思つてゐる」「大衆に迎合する様、能を変化させることは、かなり重大であつて、下手をすれば能の破壊に過ぎなくなつてしまふ」としつつ、より多くの人が能を見られる機会を作ることで、「むしろ大衆の鑑賞力を、能を理解出来るまでに、徐々に高めて行かう」という志を持ち、1937年(昭和12年)7月に日比谷公会堂での大規模な演能会を主催した。 野上豊一郎の渡欧に際しては、同行して野上の講義とともに能の公演を行わないか、という誘いがあったが、日本での能楽普及を優先したいという信念から一旦はこれを断っている。しかし水面下ではその後も話が進められており、史上初となる欧州演能の計画が具体化しつつあったが、急逝によりこれは叶わなかった。
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