聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領 (ドメニキーノ)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領 (ドメニキーノ)の意味・解説 

聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領 (ドメニキーノ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/03 02:32 UTC 版)

『聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領』
イタリア語: Comunione di san Girolamo
英語: The Last Communion of Saint Jerome
作者ドメニキーノ
製作年1614年
種類キャンバス上に油彩
寸法419 cm × 256 cm (165 in × 101 in)
所蔵ヴァチカン美術館 (絵画館)、ローマ

聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領』(せいヒエロニムスのさいごのせいたいはいりょう、: Comunione di san Girolamo: The Last Communion of Saint Jerome)は、イタリアバロック期のボローニャ派の画家ドメニキーノが1614年にキャンバス上に油彩で制作した絵画である。1612年にローマサン・ジロラモ・デッラ・カリタ教会英語版のために委嘱された作品で[1]、現在、ヴァチカン美術館 (絵画館) に所蔵されている[1] 。作品の構図はアゴスティーノ・カラッチの同主題作に非常に類似しており、ドメニキーノのライヴァルであったジョヴァンニ・ランフランコはドメニキーノが盗作を行ったとして非難した[2]

主題

サンドロ・ボッティチェッリ聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領』(1494-1495年)、メトロポリタン美術館ニューヨーク

画面の聖ヒエロニムスは赤い布を纏い、跪いた姿で表されている。聖ヒエロニムスは、341年にダルマチア地方の高貴なキリスト教徒の家に生まれた[3]ローマで学問を修めた後に神学者聖書註解者と交流を持つために各地を巡り、さらに353年から5年間ギリシアの荒野で隠遁生活を送った。絵画では、荒野を背景に自らの胸を石で打つ姿がしばしば描かれる[3]。聖ヒエロニムスはキリスト教徒ラテン語学者、翻訳家、司祭であった教会博士で、その著作が特別の権威を持った聖人でもある。彼の業績の1つは聖書をラテン語に翻訳したことである。382年から385年まで、聖ヒエロニムスはローマダマスス1世 (ローマ教皇) の書記を務めた[4]

ドメニキーノの本作は、ルネサンス期の画家ボッティチェッリによる『聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領』 (メトロポリタン美術館ニューヨーク) と同じ主題を採りあげている。それは、聖エウセビオスダマスカスに送った手紙 (聖書外典に記述されている) で述べた出来事で[5]:303-304、画面には死を間際にした90歳の聖ヒエロニムス (347–420年) が弟子たちや聖パウラ英語版に囲まれ、最後の聖体拝領を受けている姿が描かれている[1]

歴史

委嘱

ローマのサン・ジロラモ・デッラ・カリタ教会は1611-1615年の間、改修中であった。ドメニキーノはこの教会の高祭壇のために絵画を制作するよう依頼された。彼は本作『聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領』に240スクーディ英語版を支払われることになった[6]。これは、彼にとって祭壇画のための最初の公的委嘱であった[7]。ドメニキーノは2年間を制作に費やし、作品は1614年に完成した[6]

盗作

アゴスティーノ・カラッチ聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領』、ボローニャ国立絵画館英語版

1620年に、ジョヴァンニ・ランフランコは、ドメニキーノがアゴスティーノ・カラッチによる同主題作から作品の意匠を盗んだと非難した。この時、ドメニキーノとランフランコは、サン・タンドレア・デッラ・ヴァッレ英語版における作品委嘱の件で競っていた。美術理論家ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリと画家ニコラ・プッサンは、この非難に対してドメニキーノを擁護した[6]

ドメニキーノは、ランフランコやフランチェスコ・アルバーニとともにアンニーバレ・カラッチアカデミア・デッリ・インカンミナーテ英語版で修業をした著名な弟子であった[8]。この時期、ドメニキーノは仲間の弟子であったランフランコやアルバーニに比べて、独立した画家としてより名声があり、成功していた[8]。アンニーバレ・カラッチは1609年に死去していたが、彼は1602年に死去していたアゴスティーノ・カラッチの弟であった[7][9]

アゴスティーノ・カラッチは、1592年にボローニャカルトゥジオ会修道院から『聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領』 (ボローニャ国立絵画館英語版) を描くよう依頼を受け、作品は1593年末に完成した。当時、この主題は珍しいもので、ランフランコがドメニキーノの作品から意匠を盗んだという非難を深刻なものとした。パッセ―リ (Passeri) はドメニキーノを擁護するにあたり、アゴスティーノの作品に見られる聖ヒエロニムスが司祭から聖体を拝領するという形式を回避するのは難しく、アゴスティーノの聖ヒエロニムスの図像は非常に決定的なものであるため、ドメニキーノがアゴスティーノに触発されずにこの場面を想定する選択肢はなかったと主張した。さらに、パッセーリは、ドメニキーノは副次的な人物像、構図、そのほかの細部を自身の解釈で変更し、自身でできることを行ったと続けた。ドメニキーノ自身もまた、公的にアゴスティーノの絵画に触発されたと認めたが、いかなる悪意もなかったと述べた[9]

1631年、ドメニキーノはナポリに向けて旅立った。理由は不明である。健康が悪化していたこと、法的な問題、ナポリでのより儲かる委嘱などが理由であったのかもしれない。しかし、この盗作問題がドメニキーノに悪評をもたらし、時に彼の技術的名声に影を落としたということがわかっている[9]

アゴスティーノ・カラッチの作品との類似点

ドメニキーノの作品に見られるアゴスティーノ・カラッチの作品との類似点には、飛翔するプット、大きなロウソク、聖ヒエロニムスの人物像が挙げられる。ドメニキーノの聖ヒエロニムスは、アゴスティーノの聖ヒエロニムスを左右逆転し、両手を広げていることを除けば、ほぼ同じである。聖ヒエロニムスの身体を包む赤い布は類似しているが、身体の覆い方は異なる。アゴスティーノの作品では、片方の肩から膝の上に垂れている。一方、ドメニキーノの作品では、両方の肩から落ちそうなくらいにゆるく垂れ下がり、腰に巻かれている白い布を露わにしている。ドメニキーノの作品の背景には、ターバンを巻いた男を含めアゴスティーノの作品に類似した何人かの人物もいる。ドメニキーノは人物群の配置を変え、司祭と群衆の衣服のデザインも変えている[9]が、背景もまたアゴスティーノの作品に類似しており、木のある田舎の風景に続く丸いアーチのある通路が見られる。とはいえ、アゴスティーノが中景に複合式の柱を描いているのに対し、ドメニキーノはコリント式の柱を描いている。2人の画家が聖ヒエロニムスを象徴させるものは異なる。ドメニキーノは画面左下にライオンを登場させているが、アゴスティーノは聖ヒエロニムスの死を表す頭蓋骨を画面右下に描いている[4]

評価

ドメニキーノは、『聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領』を自身の傑作とみなした。アンドレア・サッキやニコラ・プッサンなど当時のほかの画家たちは、この絵画がラファエロの『キリストの変容』 (ヴァチカン美術館) にも匹敵するとみなした[6]。しかし、ランフランコによる盗作であるという非難の後に、ドメニキーノは否定的にみなされるようになった。公的な議論の後に、この問題は伝統的な模倣に関する価値観を否定するより大きな議論を巻き起こした[9]

ドメニキーノを擁護した学者や芸術家もわずかにいた。イタリアの学者カルロ・チェーザレ・マルヴァージア英語版 (1616–1693年) は、ドメニキーノの悪評に関して画家たちに「何らかの方法で盗作をしない画家がいるだろうか。版画レリーフ、自然そのもの、あるいはほかの画家たちの作品からポーズを反転させて、腕をもっと曲げて、脚を見せて、顔を変えて、布地を加えて、つまり、法的に盗作であることを隠して、盗作をしない画家がいるだろうか」と述べた[9]

脚注

  1. ^ a b c Domenichino, Communion of St Jerome”. ヴァチカン美術館公式サイト (英語). 2024年12月24日閲覧。
  2. ^ Harris, Ann Sutherland (2008). Seventeenth-Century Art and Architecture. London: Laurence King. pp. 59 
  3. ^ a b 「聖書」と「神話」の象徴図鑑 2011年、152頁。
  4. ^ a b John Burghardt (1998年). “St. Jerome (Christian Scholar)”. Britannica. 2024年12月24日閲覧。
  5. ^ Testa, Rita Lizzi (2007). “The ascetic portrayed: Jerome and Eusebius of Cremona in the Italian art and culture of the renaissance”. In Amirav; ter Haar Romeny. From Rome to Constantinople: Studies in Honour of Averil Cameron. Leuven: Brill. ISBN 978-90-429-1971-6. https://books.google.com/books?id=mimRtU4vtDwC 
  6. ^ a b c d Cropper, Elizabeth (1984). “New Documents concerning Domenichino's 'Last Communion of St Jerome'”. The Burlington Magazine 126 (972): 149–151. JSTOR 881575. 
  7. ^ a b Spear, Richard E. (2003). “Scrambling for Scudi: Notes on Painters' Earnings in Early Baroque Rome.”. The Art Bulletin 85 (2): 310–320. doi:10.2307/3177346. JSTOR 3177346. 
  8. ^ a b Schleier, Erich (1968). “Domenichino, Lanfranco, Albani, and Cardinal Montalto's Alexander Cycle.”. The Art Bulletin 50 (2): 188–193. doi:10.1080/00043079.1968.10789142. JSTOR 3048533. 
  9. ^ a b c d e f Cropper, Elizabeth (2005). The Domenichino Affair: Novelty, Imitation, and Theft in Seventeenth-Century Rome. Yale University Press 

参考文献

  • 岡田温司監修『「聖書」と「神話」の象徴図鑑』、ナツメ社、2011年刊行 ISBN 978-4-8163-5133-4
  • Cropper, Elizabeth (2005). The Domenichino Affair: Novelty, Imitation, and Theft in the Seventeenth-Century Rome. Yale University Press.
  • Cropper, Elizabeth. “New Documents Concerning Domenichino's 'Last Communion of St Jerome'.” The Burlington Magazine, vol. 126, no. 972, 1984, pp. 149–151. JSTOR 881575.
  • Schleier, Erich. “Domenichino, Lanfranco, Albani, and Cardinal Montalto's Alexander Cycle.” The Art Bulletin, vol. 50, no. 2, 1968, pp. 188–193. JSTOR 3048533.
  • Spear, Richard E. “Scrambling for Scudi: Notes on Painters' Earnings in Early Baroque Rome.” The Art Bulletin, vol. 85, no. 2, 2003, pp. 310–320. JSTOR 3177346
  • "St. Jerome (Christian Scholar)". Britannica Encyclopedia. [1]

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領 (ドメニキーノ)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領 (ドメニキーノ)」の関連用語

聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領 (ドメニキーノ)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領 (ドメニキーノ)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領 (ドメニキーノ) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS