フランチェスコ・アルバーニとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > フランチェスコ・アルバーニの意味・解説 

フランチェスコ・アルバーニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 23:34 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
フランチェスコ・アルバーニ
Francesco Albani
自画像
生誕 1578年
ボローニャ
死没 1660年10月4日
ボローニャ

フランチェスコ・アルバーニ(Francesco Albani 、Albanoとも、1578年[1] - 1660年10月4日)はイタリアの画家である。「ボローニャ派」 の画家の一人である。

略歴

ボローニャに生まれた。父親は絹商人で、息子を商売の道に進ませようとしたが、画家の道に進み、12歳になった時、フランドル出身でボローニャで働いていたマニエリスムの画家、デニス・カルヴァールト(Denijs Calvaert: c.1540-1619)の弟子になり、同じくカルヴァールトの弟子をしていたグイド・レーニと知り合った。レーニが通っていた「アカデミア・デリ・インカミナーティ」に加わった。この学校はアンニーバレ・カラッチアゴスティーノ・カラッチルドヴィコ・カラッチが運営していて、ドメニキーノやルーチョ・マッサーリ、ジョヴァンニ・ランフランコといったボローニャの画家たちを育成した。

1600年にアルバーニはローマに移り、アンニーバレ・カラッチの助手としてグイド・レーニとともに、パラッツォ・ファルネーゼのギャラリーの壁画を描いた。時の教皇クレメンス8世は政治的な背景もあって、この頃、ボローニャの画家たちを重用していた。ローマでサン・ジャコモ・デリ・スパニョーリ教会などの壁画を、レーニと共同で制作したりした。その後、1609年にボローニャ、1609年から1610年の間はヴィテルボ、1610年から1617年は再びローマで働いた後、ボローニャを拠点に、マントヴァ(1621–1622)、ローマ(1623–1625)、フィレンチェ(1633)で働いた。

宗教画や神話を題材に装飾画を描いた。

弟子にカルロ・チニャーニ(Carlo Cignani: 1628-1719)やアンドレア・サッキ(Andrea Sacchi: 1599-1661)がいる。

作品

脚注

  1. ^ Puglisi, Catherine; Francesco Albani (1999). Francesco Albani. Yale University Press 

参考文献

  • Wittkower, Rudolf (1993). Art and Architecture Italy, 1600-1750. Penguin Books, Pelican History of Art. pp. 78–80, 82–83.
  • Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Albani, Francesco". Encyclopædia Britannica (11th ed.). Cambridge University Press.



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  フランチェスコ・アルバーニのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フランチェスコ・アルバーニ」の関連用語

フランチェスコ・アルバーニのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フランチェスコ・アルバーニのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフランチェスコ・アルバーニ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS