結婚、マリ伯の反乱、不和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/31 04:22 UTC 版)
「ヘンリー・ステュアート (ダーンリー卿)」の記事における「結婚、マリ伯の反乱、不和」の解説
勝利を確信したレノックス伯とダーンリー卿父子は、厳しい女王エリザベス1世の命令に対して聞く耳を持たなかった。メアリーはローマ教皇に結婚許可を求める手紙を書く前に、ダーンリーをロス伯に叙した。7月22日にはダーンリーが熱望していたオールバニ公の地位も与え、7月28日にはスコットランド王の称号も与えた。周囲の反対を押しきり、2人は1565年7月29日にホリルード宮殿で結婚式を挙げた。8月1日にマリ伯がエリザベス1世の援助を得て反乱を起こし、メアリーとダーンリーも戦場に向かったが、ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンにより鎮圧された。マリ伯一味はイングランドに亡命した。 しかし間もなくメアリーは、夫のダーンリーが、両親から甘やかされて育った非常なエゴイストで、野心家である事がわかった。彼はメアリーが議会で許可する前から、盛んに共同統治者との地位と完全な実権を与えるよう妻に要求した。またダーンリー卿は美しい女性に目がなく、浮気にも走るようになった。メアリーは、自分の軽率な結婚を後悔するようになっていった。ダーンリー卿は傲慢な態度を露わにするようになり、メアリーや周囲の者の怒りを招いた。11月後半にメアリーが病気になっても、ほんの数分姿を見せただけで、ファイフへ狩猟に行ったまま9日間も帰ってこなかった。メアリーは12月には、ダーンリー卿から国王の称号を取り上げ、2人の顔を彫らせた銀貨も回収してしまった。
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