結城氏 北ノ庄城(福井城)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 14:32 UTC 版)
「福井城」の記事における「結城氏 北ノ庄城(福井城)」の解説
1600年(慶長5年)に家康の次男である結城秀康が関ヶ原の戦いの戦功第一位ということで68万石で北ノ庄を拝領すると、翌1601年(慶長6年)9月には知行割を実施し、築城に着手した。1604年(慶長9年)に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成する。完成した城は東が新堀川(現在の荒川)、南は足羽川、北は加賀口馬出までの2キロメートル四方に及んだ。本丸には4重5階の天守が建てられた。 柴田氏の北ノ庄城の跡地に、結城氏によって新たに「北ノ庄城」が築城されたため、現在では柴田氏の遺構を見ることは出来ない。1993年(平成5年)から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていない。 1624年(寛永元年)に福井藩第3代藩主松平忠昌によって、「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」から「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名される。改名の経緯に関しては諸説あるが、一説には、北ノ庄城内にあった「福の井」という井戸に因んで改名されたと言われる。 1669年(寛文9年)に天守が焼失し、以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかった。幕府から再建の許可が下りなかったとの説もある。
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