累の物語とは? わかりやすく解説

累の物語

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 14:23 UTC 版)

累ヶ淵」の記事における「累の物語」の解説

累の物語が最初に知られるのは、元禄3年1690年)に出版され仮名草子本『死霊解脱物語聞書』である。『聞書によれば慶長17年1612年)から寛文12年1672年)までの60年わたって繰り広げられ実話に基づくとされている。 下総国岡田郡羽生村に、百姓・与右衛門(よえもん)と、その後妻・お杉夫婦があった。お杉連れ子である娘・助(すけ)は生まれつき顔が醜く、足が不自由であったため、与右衛門は助を嫌っていた。そして助が邪魔になった右衛門は、助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年に与右衛門お杉女児をもうけ、累(るい)と名づけるが、累は助に生き写しであったことから助の祟り村人噂し、「助がかさねて生まれてきたのだ」と「るい」ではなく「かさね」呼ばれた両親相次いで亡くなり独りになった累は、病気苦しんでいた流れ者谷五郎(やごろう)を看病し二代目右衛門として婿に迎える。しかし谷五郎容姿の醜い累を疎ましく思うようになり、累を殺して別の女と一緒になる計画立てる。正保4年8月11日1647年)、谷五郎家路を急ぐ累の背後忍び寄ると、川に突き落とし残忍な方法殺害したその後谷五郎幾人も後妻娶ったが、尽く死んでしまう。6人目後妻・きよとの間にようやく(きく)という名の娘が生まれた寛文12年1月1672年)、に累の怨霊がとり憑き、の口を借りて谷五郎非道語り供養求めての体を苦しめた近隣飯沼にある弘経寺(ぐぎょうじ)遊獄庵に所化として滞在していた祐天上人はこのことを聞きつけ、累の解脱成功するが、再び何者かがとり憑いた。祐天上人問いただしたところ、助という子供の霊であった古老の話から累と助の経緯明らかになり、祐天上人は助にも十念授け戒名与えて解脱させた。 法蔵寺には累を弔った墓があり、常総市指定文化財になっているまた、法蔵寺には祐天上人解脱用いたという数珠・累曼陀羅木像なども保存されている。

※この「累の物語」の解説は、「累ヶ淵」の解説の一部です。
「累の物語」を含む「累ヶ淵」の記事については、「累ヶ淵」の概要を参照ください。

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