第3次ウニヴェルサール期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:29 UTC 版)
「ウクライナ中央ラーダ」の記事における「第3次ウニヴェルサール期」の解説
しかし、10月にボリシェヴィキによる十月革命が発生すると、ウクライナとロシアの友好関係は終わりを迎えることとなった。中央ラーダは、暴力によって臨時政府から権力を奪取したボリシェヴィキを非難し、十月革命を認めなかった。これまでの権力保障機関であったロシアの臨時政府が消滅したことを受け、11月20日、中央ラーダと総書記局はより広範囲の独立自治を謳う「第3次ウニヴェルサール」(第3次宣言;III Універсал)を発し、ここにウクライナ人民共和国の創設を宣言した。これは、依然としてロシアとの連邦制を謳ったものであったが、実際にはロシアには中央ラーダの認める政権が存在しておらず、この「第3次ウニヴェルサール」が事実上のウクライナの独立宣言となったといえる。また、イギリスとフランスは「第3次ウニヴェルサール」を受けてウクライナ人民共和国の独立を承認し、代表団をキエフに送った。この早急なる承認の裏には、ウクライナが単独で独墺と講和条約を結ぶことを危惧したという理由があった。日本をはじめ他の諸外国も、相次いでキエフへ代表団を送り込んだ。 「第3次ウニヴェルサール」で創設されたウクライナ人民共和国は、民族主義を標榜する社会主義国家という奇妙な枠組みをもっていたが、宣言の方針はきわめて民主的な内容のものであった。また、領土は東部のハルキウや南部のヘルソーンやタウリダ、カテリノスラーウ(現代のドニプロペトロウシク)の4県を併合し、ほぼ帝政時代のウクライナの領土を回復した。
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