第3期:ド・ヴァランス家(1247年 - 1324年)
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ウィリアム・ド・ヴァランス (初代ペンブルック伯) (1225年頃 - 1296年) エイマー・ド・ヴァランス (第2代ペンブルック伯) (1270年 - 1324年) 次にペンブルック伯爵領を得たのはフランス貴族ユーグ10世・ド・リュジニャンの息子で、ヘンリー3世の異父弟でもあったウィリアム・ド・ヴァランスである。父ユーグ10世はジョンの未亡人でヘンリー3世の母イザベラ・オブ・アングレームとの結婚により、アングレーム伯爵になった。 1247年、ウィリアムは2人の兄弟と共に、フランスから異父兄のヘンリー3世を頼ってイングランドに移住した。ヘンリー3世はウィリアムと初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルの孫娘にしてその相続人であったジョアン(1307年没)と結婚させた。ウィリアムは土地の管理権とペンブルック伯位を獲得し、新天地において莫大な富と権力を得たのである。その結果として彼は人気が低かった。また、彼は第二次バロン戦争にも深くかかわり、国王およびエドワード太子(後のエドワード1世)側についてシモン・ド・モンフォールや造反諸侯を相手に戦った。1265年のイブシャムの戦い(en)で決定的な敗戦を経験しながらも、ウィリアムは1296年に死去するまでヘンリー3世とエドワード1世に仕え続けた。 ウィリアムの息子のうち最年長のエイマーが父の財産を受け継いだが、母親であるジョアンが1307年に死亡するまでの間、正式にペンブルック伯とは認められなかった。1306年にはスコットランドの守護者に任じられたが、エドワード2世が即位してコーンウォール伯ピアーズ・ギャヴィストンが勢力を増すと、エイマーの影響力は小さくなった。エイマーは不平貴族らの中心人物となったが、1312年にウォリック伯ガイ・ド・ビーチャム(en)が裏切り、捕虜にしたギャヴィストンを処刑した時、諸侯の同盟を去り国王側についている。バノックバーンの戦いが起きた1314年にエイマーは存命しており、エドワード2世がランカスター伯トマスを打ち負かすのを手伝ったりした。だが、エイマーが1324年に死去した時、エイマーは財政面で困難に陥っていた。また、エイマーの妻だったマリー・ド・シャティヨン(en)はヘンリー3世の子孫であり、ペンブルック・カレッジの創始者でもある。
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