第2師団と師管の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/08 22:48 UTC 版)
師団制の師管は同じ番号の師団と密接に結びついており、第2師団の兵士は第2師管に戸籍を持つ男子から徴集された。第2師管から徴兵された兵士は大部分第2師団に入ったが、これには多くの例外がある。独自の師管を持たない近衛師団には、全国の師管から選抜した兵士が送られた。1920年頃までは人口が少ない北海道の第7師団にも兵士を送っていた。第2師管から第7師団への配属は、1903年に444人、1906年に570人、1907年に660人、1914年に459人、1920年に256人といった数がたどれる。大正・昭和には朝鮮に置かれた師団にも配属があった。一例として、1926年(大正15年)に第2師管から徴集された現役兵は7243人。そのうち第2師団に配賦された兵士は5275人、朝鮮の第19師団が1050人、近衛師団が704人、弘前の第8師団が214人であった。第8師団は騎兵の定員が特に多かったため、第2師管から騎兵を送ったようである。また、戦時には第2師団の損害を補うために補充兵を送ったが、大きな戦争では様々な部隊が臨時編成されたので、新部隊に入る兵士が多くなった。 師管はまた、師団が対外防衛・治安維持にまっさきに出動すべき範囲でもあった。しかし、第2師管は対外防衛上の要地ではなく、師団制が敷かれた1888年には国内反乱の可能性が低くなっていた。第2師管での出動としては、1933年(昭和8年)の昭和三陸地震で宮城県の被災地に第2師団が救護隊を派遣した災害出動があった。
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