空席危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 06:23 UTC 版)
「ハルシュタイン委員会」の記事における「空席危機」の解説
上記の件や委員会とフランスの間であった同様の考え方の相違について、フランスが理事会の議長国となり、そのために通常の調停機能が失われ両者の溝は深まっていった。さらに理事会がフランスとほかの加盟国間での議論の場の中心となり、委員会の存在は隅に追いやられていった。このため政策立案という委員会の専門的な機能が用いられる機会は失われてしまった。1965年6月30日、ついにフランス政府は自己の主張が受け入れられるまで理事会に出席しないと表明して、ブリュッセルに駐在していた政府代表を召還した。このいわゆる「空席危機」はEECの活動が加盟国の行動のために停止するという初の事件であり、理事会の行動の失敗を晒すものであった。 フランス政府は国内経済が協議に戻ることを求める圧力が起こるまでの6か月間、「空席」を続けた。1966年1月にルクセンブルクで会合が開かれ、そこで合意に至った。このいわゆる「ルクセンブルクの妥協」で加盟国は自国の国益に影響するような決定には拒否権を行使することができるようになったが、どのような国益を対象とするか、また紛争の解決の方法についての詳細は定められなかった。ところがこれ以降、拒否権はたびたび行使されることになる。理事会において全会一致で可決する案件では反対を表明することで拒否権を行使することになるためで、この妥協の規定は単一欧州議定書で削除された。空席危機後、委員会は理事会のスケープゴートとなり、ハルシュタインはジャック・ドロールが登場するまでで最も行動力のあるリーダーであったが、理事会が再任を拒んでその職務を追われた唯一の委員となった。
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