種牡馬としてのマイスワロー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/05 07:51 UTC 版)
「マイスワロー」の記事における「種牡馬としてのマイスワロー」の解説
種牡馬としてのマイスワローは、競走成績から期待されたほどの結果は残すことができなかった。初年度産駒からは1975年にイタリアのグランクリテリウムを勝ったノーザンスプリング、2年目の産駒からは1977年のヘンケルレネン(ドイツ1000ギニー)を勝ったアヴィアティクなどが出たが、イギリスにおけるアーニングインデックスは平均値の1を下回る0.7であった。 やがて日本に売却され、1978年から吉田牧場で種牡馬生活を送ることになったマイスワローは、日本における初年度産駒から1982年のきさらぎ賞を勝ち皐月賞、東京優駿で2着に入ったワカテンザンが出たものの、その後は1984年の高松宮杯を勝ったキョウエイレア(左目が見えず「独眼竜」の異名を取った)が目立つ程度であり、ついにG1級の産駒を送り出すことなく、1988年に種牡馬引退が決まった。なお、ワカテンザンの妹ワカスズランと、マイスワロー産駒の種牡馬ラッキーキャストとの間には、1995年の香港国際カップ(当時国際G2)を勝って同年のJRA賞最優秀父内国産馬に選出されたフジヤマケンザンが生まれている。 しかし、そのフジヤマケンザンもすでに種牡馬を引退しており、また前出のワカテンザンや、マイスワローがヨーロッパに残してきた産駒のなかから種牡馬として日本へ来たゼロファイターらも目立った産駒を残せなかったことから、マイスワローの直系は事実上絶滅したと言ってよい。現在では、マイスワローの孫にあたる牝馬マジックリボン(1999年全日本サラブレッドカップ優勝、同年NARグランプリ最優秀牝馬)など、主として吉田牧場の繁殖牝馬の中にその名前を確認できる程度である。
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