称号付与の厳格化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/07 05:24 UTC 版)
ニコライ1世に男子が多く生まれると、大公の数は急に増え始めた。このおかげで、ロシアはかつての帝位継承が常に危ぶまれ、国家が不安定になる状況から抜けだすことが出来た。大公を名乗る権利は皇帝の男系子孫であれば生じ、当初は何の制限も設けられていなかった。しかし大公の人数が20人をこえた1880年代になると、時の皇帝アレクサンドル3世はその数が多すぎると感じるようになった。これ以後も全ての男系男子に大公の称号を許せば、帝室の権威と大公という称号の重みは低下してしまう、と皇帝は考えたのである。 アレクサンドル3世は1886年7月14日(ユリウス暦7月2日)に、ロシア帝室の家内法に以下の修正条項を盛り込ませた。大公は今後、皇帝の息子と男系孫にのみ許される称号とし、大公女(大公妃)の称号に関してもこれに合わせて皇帝の娘と男系の孫娘、および大公の正式な配偶者のみが有する。 アレクサンドル3世の布告により、生後9日の新生児が大公の称号を名乗る権利を失った。イオアン・コンスタンチノヴィチ(1886年 - 1918年)である。このように、ロシア皇族でも皇帝から血統的に見て遠い場合(皇帝の曾孫以下の直系卑属の場合)、その人物は大公の称号を名乗る資格を持たず、「皇帝の血を引く公」(クニャージ・インペラトルスコイ・クロヴィ、Князь императорской крови)とされ、「公」あるいは「ロシア公」の称号で呼ばれた。イオアン・コンスタンチノヴィチは、出生時には有していた大公の称号をアレクサンドル3世の布告により失った唯一のロシア皇族である。アレクサンドル3世の娘クセニア・アレクサンドロヴナの子供たち、つまりアレクサンドル3世自身の孫たちも、この規定によって生まれながらの大公の称号を持てなかった。彼らは男系血統でいえばニコライ1世の曾孫に「過ぎず」、大公を名乗ることの出来る世代から1世代離れていた。
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