秋山定輔と宮崎龍介
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1937年7月19日、宮崎龍介は、父同様かつて孫文(1925年死去)との親交深かった人物で、当時政界の黒幕とみなされていた旧知の秋山定輔より電話で呼び出された。麹町の秋山宅に行くと、宮崎は秋山より中国へ赴き戦争をやめるよう中国国民党の蔣介石と協議すること、あるいは国民党ナンバー2の汪兆銘を日本に連れてくることを指示され、これについては「近公(内閣総理大臣近衛文麿)が責任をもつ」と告げられた。当初は「すぐに南京に行って蔣介石を連れて来い」との命令だった。何のためにかと宮崎が問うと、秋山は「判りきっているじゃないか、日本外道の懺悔だ。これを蔣君に聞いてもらうんだ。蔣君は聞く耳を持っているはずだ」と述べた。秋山は近衛首相から、中国との和平工作の特使として宮崎を派遣するよう依頼されていたのであった。宮崎は抗日軍総司令の蔣介石を敵国に連れてくるなど、とても無理だと断ると、「汪兆銘ではどうだ」と迫られ、早速に向かうよう急き立てられた。目的を果たせるかどうかの成算もないまま、宮崎は中華民国大使館に蔣介石への問い合わせを依頼した。宮崎は、駐日大使館付高級武官の蕭叔宣を通じ、蔣介石より「南京に来れば会う」との返答を得た。また、蔣からの返電には上海まで迎えを出すとも申し添えてあったので、宮崎は神戸港から上海への汽船「長崎丸」を手配した。
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