神雄寺の性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 05:53 UTC 版)
神雄寺という名前から、神仏習合の山林寺院であったとみなされている。出土した瓦が平城京の長屋王邸などで使われていたものと同じであったこと、歌木簡や当時貴重であった着色された陶器が出土するところから、神雄寺を建立・経営したのは天皇周辺の高位の人物と判断でき、光明皇后や、当時近くの井手に邸宅を構えていた橘諸兄の名が上がっている。平城京の北を守る境界の神聖な山として、そこから湧き出る清水に由来する特別な信仰があったと考えられ、長岡京や平安京に遷都すると神雄寺の機能は不要となった。大量の灯明皿や墨書土器の存在から、大規模な燃灯供養が行われたことが判明している。また歌木簡や多数の仏具から大規模な法会・祭礼・歌会なども行われたことも考えられる。なお第1期と第2期の出土品の違いから、発掘当初の2010年頃は「第一期は寺院ではなく皇族や貴族の別邸のようなもので、第二期に寺となった」という意見もあったが、2014年の発掘調査報告書では建造当初から一貫して寺院であったとされている。
※この「神雄寺の性格」の解説は、「神雄寺跡」の解説の一部です。
「神雄寺の性格」を含む「神雄寺跡」の記事については、「神雄寺跡」の概要を参照ください。
- 神雄寺の性格のページへのリンク