社屋炎上
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:20 UTC 版)
1976年11月に不二雄が無事合流し、YOSHIMURA R&Dはアメリカでの基盤を確立しつつあった1977年2月18日、3月のデイトナ参戦を目前に火災は起こった。ノースハリウッドの工場でダイナモを使ってZ1のエンジンをテストしていた際にセルモーターがショート、散った火花がガソリンに燃え移り火災が発生した。吉村は消火器で消火を試みるもこれに失敗、爆発を防ぐためガソリンタンクを外に持ち出そうとした。ようやく脱出するも顔から腕にかけての火傷が酷く、急遽太ももから皮膚の移植手術が行われた。治療やリハビリは直江と二人三脚で行われ、この時の二人の姿はアメリカ人たちの感動を呼び、地元の新聞にも掲載された。しかし、吉村は時折「俺はもういないと思え」など不安な行動をとり、当時の吉村のおかれた心境を直江は以下のように述懐している。 口には出さなかったけど、火傷が痛かったのと、自分が火事を起こしてしまったという苦しさの両方だったんだと思います。商売が失敗して、ようやく再開していよいよデイトナという矢先だったから思いつめていたんでしょう。 — 吉村直江、ポップ吉村の伝説 不二雄も大変であった。工場は事務所を除いて全焼し、マシンも失ってしまったためデイトナへの出場を断念することも検討したが、ウェス・クーリーや同じレースに出る敵同士のはずのレグ・プリッドモア(英語版)やクック・ニールソン(英語版)らの励ましを受け、デイトナ出場を決意した。あり合わせのパーツでマシンを組むことはできたが、予選で最速タイムを記録するも決勝では3位に終わった。優勝は吉村の見舞いにも訪れていたクック・ニールソンであった。しかし、優勝を逃してもデイトナに現れたヨシムラに観客は惜しみない喝采を送り、不二雄も吉村に代わって総指揮という大役を務めた事は自信にもつながった。 火事の被害は大きかったが、保険に加入していたため工場の物件や治療費は保険でまかなうことができた。吉村はYOSHIMURA R&D設立当初、保険の加入すら渋っていたため、不二雄の勧めによって加入していなければあの時点でヨシムラは終わっていただろうと後に語っている。
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