碑と町石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:59 UTC 版)
「九十九王子 (田辺市本宮町)」の記事における「碑と町石」の解説
中辺路のうち、滝尻から本宮までの区間(旧中辺路町域および旧本宮町町域に重なる)の王子には、以下のような特徴的な遺構が見られる。 ひとつは、緑泥片岩の碑である。前述のような事情から、江戸期にはすでに多くの王子は廃絶し、跡地のみとなっていたものがほとんどであった。それらの王子を顕彰するために、享保8年(1723年)、当時の紀州藩が造立したのがそれらの緑泥片岩碑である。大門、比曽原、中ノ河、小広、猪鼻などに残された碑を今日でも見ることが出来る。 もうひとつは、流紋岩製の町石卒塔婆である。町石卒塔婆とは、一般に、山地の寺院への参道に1町(約109.09m)ごとに建てられたもので、道標の役割を果たした。自然石を転用したものもあるが、多くは五輪卒塔婆または笠塔婆の形式を採り、上部に本尊の梵字、下部に町数、側面や背面に造立年月日や願主名が彫られる。天仁2年(1109年)の藤原宗忠の参詣記には本宮までの町数を示した卒塔婆(「三〇〇町蘇屠婆」)の存在について言及がある(滝尻から本宮まではおおよそ300町=32km、実際には約37kmある)が、これは木製のものであったようだ。現存する町石卒塔婆は、様式から鎌倉時代後期のものとみられ、承久の乱後に荒廃した熊野参詣道の整備を鎌倉幕府が幾度か行った際のものである。今日その姿を見ることができるものはその時期に建てられたものであるが、現存するものは少ない。
※この「碑と町石」の解説は、「九十九王子 (田辺市本宮町)」の解説の一部です。
「碑と町石」を含む「九十九王子 (田辺市本宮町)」の記事については、「九十九王子 (田辺市本宮町)」の概要を参照ください。
碑と町石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 03:50 UTC 版)
「九十九王子 (田辺市中辺路町)」の記事における「碑と町石」の解説
中辺路のうち、滝尻から本宮までの区間(旧中辺路町域および旧本宮町町域に重なる)の王子には、以下のような特徴的な遺構が見られる。 ひとつは、緑泥片岩の碑である。前述のような事情から、江戸期にはすでに多くの王子は廃絶し、跡地のみとなっていたものがほとんどであった。それらの王子を顕彰するために、享保8年(1723年)、当時の紀州藩が造立したのがそれらの緑泥片岩碑である。大門、比曽原、中ノ河、小広、猪鼻などに残された碑を今日でも見ることが出来る。 もうひとつは、流紋岩製の町石卒塔婆である。町石卒塔婆とは、一般に、山地の寺院への参道に1町(約109.09メートル)ごとに建てられたもので、道標の役割を果たした。自然石を転用したものもあるが、多くは五輪卒塔婆または笠塔婆の形式を採り、上部に本尊の梵字、下部に町数、側面や背面に造立年月日や願主名が彫られる。天仁2年(1109年)の藤原宗忠の参詣記には本宮までの町数を示した卒塔婆(「三〇〇町蘇屠婆」)の存在に言及がある(滝尻から本宮まではおおよそ300町=32キロメートル、実際には約37キロメートルある)が、これは木製のものであったようだ。現存する町石卒塔婆は、様式からして鎌倉時代後期のものとみられ、承久の乱後に荒廃した熊野参詣道の整備を鎌倉幕府が幾度か行った際のものである。今日その姿を見ることが出来るものはその時期に建てられたものであるが、現存するものは少ない。
※この「碑と町石」の解説は、「九十九王子 (田辺市中辺路町)」の解説の一部です。
「碑と町石」を含む「九十九王子 (田辺市中辺路町)」の記事については、「九十九王子 (田辺市中辺路町)」の概要を参照ください。
- 碑と町石のページへのリンク