石峰堡起義
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蘭州事件後、ジャフリーヤの残党の調査が始まった。ジャフリーヤは全滅したと思われていたが、実際には馬明心の弟子である穆憲章がムルシドの地位を継承していた。彼は拠点を現在の甘粛省の平涼に移した。 蘭州事件から3年後の1784年、ジャフリーヤは田五アホンに率いられ禁教反対を訴えて、後に「石峰堡起義」と呼ばれることとなる反乱を起こした。蜂起したジャフリーヤは馬明心の復讐をでスローガンとして掲げ、反乱は蘭州事件よりも激しいものとなった。戦火は甘粛南部を焼き尽くし、3か月の戦闘の後、7月4日に反乱軍は政府軍の攻撃で全滅した。 この反乱後に処刑されたりして死んだ者は1万人、流罪になった者は5000人に上ったが、全滅させたはずのジャフリーヤが再び反乱を起こしたことに対して乾隆帝の不安は拭えず、郷約によるスパイ活動を徹底させた。清朝は田五の死後に指導者となった、馬明心の弟子であり張夫人の親戚である張文慶を拷問し殺害したものの、彼は第2代ムルシドである穆憲章については最後まで語らなかったため、穆憲章は1812年に死ぬまで30年間ムルシドの地位にあり続けた。 穆憲章の死後、馬明心と穆憲章の弟子であった馬達天が第3代ムルシドに就任した。馬達天は拠点を自らの出生地である霊州に移して秘密裏に勢力を伸ばした。この頃にはジャフリーヤへの弾圧は軽くなっており、馬達天は教徒が道堂を作りたいと申し出たさいにも当初は許可しなかったものの、教徒の熱心さに折れて建設を認めた。しかし建設後、官憲が取り調べに入り馬達天は逮捕された。役人は馬達天がムルシドであることを知らぬまま現在の黒竜江省のチチハルに流罪とし、馬達天はそこへ向かう旅路で死去したが、そのほかの一行はたどり着いて黒竜江にジャフリーヤを根付かせた。現代においてもジャフリーヤは馬明心を記念するために頬の髭を剃るが、その習慣は馬達天のときから開始されたとされている。 馬達天は黒竜江へ向かう途中に監獄で秘かにムルシドの地位を息子の馬以徳に継承した。清朝による弾圧はゆるんで神秘主義的な儀礼を行うことも可能になっていたため、馬以徳はジャフリーヤの儀式を復活させるなど勢力復興に努めた。彼がムルシドの地位にあったおよそ30年間でジャフリーヤは数十万の勢力にまで回復した。彼は1849年に死去し、ムルシドの地位は息子の馬化龍が継承した。
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