石城の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 02:03 UTC 版)
通称は隼之助で、石城は字である。雅号に㐮山・貞幹・華頂・永慶がある(華頂は庄内藩の名山花頂山、㐮山は中国唐山の地名から)。石城は江戸詰めの庄内藩士浅井勝右衛門の次男であったが、尾崎家の養子となった。忍藩では、御馬廻役で百石の中級武士だったが、安政4年(1857年)、29歳の時、上書をして藩政を論じたため、蟄居となり、十人扶持の下級武士となった 。上書の内容は不明だが、絵日記内で水戸浪士の所業に共鳴している一文があるため、尊王攘夷に近い心情だったとも捉えられている。加えて、忍藩が水戸藩とは対立する親藩であったことから、共鳴するような家臣の動きには抑圧的だった。 石城は多くの随筆と詩を書き、軸物絵、屏風絵、襖絵なども描く、文才と画才に優れていた。中には友人知人の依頼もあり、行灯絵も描いている。これらの仕事と読み書きの手習いによって禄を下げられながらも生計を立てていた。 このころ、妹夫婦(妹は邦子、夫は進、下級武士)の家に同居するが独身であり、尾崎家を追い出されたともみられている。石城が33歳時に、絵日記を書く。
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