石城郡・磐城郡(第1次)
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石城郡成立に至るまでの当該地域の変遷については諸説あって定かではないが、『常陸国風土記』によれば、この地は当初多珂国に属し、石城評造が置かれていたが、白雉4年(653年)に石城評(いわきのこおり)として分立し、陸奥国に属したとされる。 養老2年(718年)、陸奥国の三分割にともない成立した石城国に編入されたが、石城国は十年足らずで廃止され、再び陸奥国に帰属した。文献史料に「石城」と記されるのはこの頃までで、天平神護2年(766年)に陸奥国が磐城・宮城の2郡の貧民に稲を給付した記録から、「磐城」の表記になった。 10世紀前半に著された『和名類聚抄』では、蒲津・丸部・神城・荒川・私・磐城・飯野・小高・片依・白田・玉造・楢葉の12郷が置かれていたとある。治承4年(1180年)頃、岩城郡・岩崎郡・楢葉郡の三郡に分割され、いったん石城郡の名は消滅した。
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