眼病の始まりから得度そして山本玄峰になるまで
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「山本玄峰」の記事における「眼病の始まりから得度そして山本玄峰になるまで」の解説
結婚後暫くしてから眼病を患い、翌年(明治18年)には眼病の治癒を願って滝行に挑んだ。その後、現在の京都府立医科大学付属病院に入院して、遂に1887年(明治20年)には医師から失明宣告(わずかに光は感ずることができたという)を受けるに至った。宣告後、病院を出て足尾銅山等彷徨い、越後出雲崎で行倒れとなった(p.14)。眼疾はすすむので、弘法大師(空海)の高徳に縋ろうと、四国八十八箇所の霊場巡りを発願した。はだし参りをすること7回に及んだ。この四国遍路をしている間に、妻のいち女と離婚。1889年(明治22年)の7回目の四国遍路の途上、33番札所である高知県の雪蹊寺の門前で行き倒れとなったところを山本太玄和尚に助けられた。その後は寺男として働き始め、一度故郷に帰り家督を弟に譲った。そして雪蹊寺に戻り、1890年(明治23年)には太玄和尚について得度。玄峰の号を授かりその後、太玄和尚の養子となった(pp.15-17)。
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