盲暦の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 13:07 UTC 版)
盲暦は各種の記録が残されている。菅江真澄が天明3年(1785年)に『けふの狭布』で初めて記録を残し、橘南渓が天明4年(1786年)に「東遊記(該当ページ)」で全国に紹介した。橘南渓は「かな文字も未だ知らない所は、南部盛岡の城下から70~80里も北西にある田山村という辺鄙な場所である。まるで古の結縄で数を記録したことのようだ」「西国と東国の文化は格別だ」「とにかく、日本は西から開けたと思う」と記している。また、百井塘雨が天明4年に『笈埃随筆』で、漆戸茂樹が嘉永3年(1850年)に『北奥路程記』で、山崎美成が『醍醐記談』の中の「安寺持方」で記録を残している。松浦武四郎は嘉永2年(1849年)に『鹿角日記』で記録をのこしている。この中で松浦は、田山村に到着して、橘南渓が記録している盲暦を求めたが、村人は恥じて売ってもらえなかった。そのため、松浦は主人の孫兵衛に頼み込んで盲暦を求めた。松浦は「盛岡盲暦は技巧的に優れているが、古雅を失っているのが惜しい。この田山暦は古雅があって面白い。」と評している。松浦は昔、橘南渓が残したと思われる詩が版元にかつてあって、それが南部藩の役人が所望したのであげたことを記している。大柴峯吉の『夢之代』でも紹介されている。シーボルトは著作『日本』で盲暦を世界に紹介し、その記述は日本の記録以上に詳細であるという。田山歴は後期のものは「たやまこよみ」と表題をつけている。地元では著者の名を取って「善八暦」とも呼ばれていた。また「座頭暦」の名もあったという。
※この「盲暦の記録」の解説は、「盲暦」の解説の一部です。
「盲暦の記録」を含む「盲暦」の記事については、「盲暦」の概要を参照ください。
- 盲暦の記録のページへのリンク