病気、転職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 18:16 UTC 版)
1936年、3月16日、東京外国語学校を卒業する。教員免許を取らなかった南吉は東京で就職活動するが、この年は不景気だったこともあり、文系学生の就職は困難だった。4月、東京土産品協会という会社に就職する。南吉は英文カタログを作成する仕事をするが、激務の上月給は40円と安いものだった。10月9日、二度目の喀血で倒れ1か月寝たきりの生活になる。近所に住んでいた巽夫妻の献身的な看病で、小康状態となった南吉は、11月16日、帰郷し療養生活を送る。 1937年、教員の仕事を探し、4月、河和第一尋常高等小学校の代用教員を7月末まで務める。同じ学校で代用教員の山田梅子との交際が始まる。9月1日、杉治商会鴉根山畜禽研究所に就職。寄宿舎に住み込み、鶏の雛を世話をする仕事で、20円の薄給、休みは月2回という激務で、翌年1938年1月退職する。その後、半田中の恩師で安城高等女学校の校長になっていた佐治克己の働きかけで女学校教員採用が決まり、3月17日中等教員免状を取得する。3月31日安城高等女学校教諭心得の辞令が出る。中山ちゑとの交際がはじまり、4月1日、杉治商会時代から疎遠になっていた山田梅子に別れの手紙を書く。
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