畑繋堤(はたつなぐつつみ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 23:44 UTC 版)
「松枝輪中」の記事における「畑繋堤(はたつなぐつつみ)」の解説
この地域はやや高台にあることもあり、輪中としては発達していなかった。しかし、宝暦5年(1755年)、薩摩藩による宝暦治水が完成すると、長良川の水位が上昇し、今まで洪水の少なかったこの地域でも洪水が多発するようになる。この為、幾度も堤防を築くよう幕府に許可を求めるが、許可は下りなかった。 そこで人々は、天明3年(1783年)頃より、畑と畑を繋ぐ、畑に堆肥を入れるといった名目で畑に盛り土をし、堤防としてではなく、畑という名で堤防を築き始める。しかし、この無願工事は周辺の村の反発を買い、工事は中止となる。翌年には輪中の代表が工事の許可を北方代官所(現一宮市北方にあった代官所)に届けたが、不穏な動きとみなされ、代表者4名が投獄される(後に獄死)。その後もひそかに工事は続けられる。 文化2年(1805年)、酒井七左衛門が北方代官に任じられると、酒井は松枝を視察し、人々の苦労を知ると、「流れた土を原型に取り繕う」という名目で無願工事を黙認する。しかし、他の村々が江戸に訴えた事により酒井は取調べを受けるが、「天の下では全ての人々は平等であり、松枝の人々が苦しみ、他の村が利益を受けるのは不公平である」と述べ、咎めを受けなかった。 苦労の末、文化4年(1807年)、工事は完成し、この堤を畑繋堤と呼んだ。 酒井七左衛門と獄死した4名の代表者は、岐阜市柳津町2丁目にある畑繋大神宮に祭られている。 畑繋堤跡は岐阜市指定史跡となっている。
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