町名変更の過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 01:42 UTC 版)
「大倉山 (横浜市)」の記事における「町名変更の過程」の解説
地名は実業家であり、東洋大学学長も務めた大倉邦彦が1932年(昭和7年)、現在の大倉山公園に創設した大倉精神文化研究所(その後建物を横浜市に移管し大倉山記念館として運営)に由来する。研究所創設以前、この地の丘は、観音山と呼ばれていたが、研究所創設に伴って通称大倉山と呼ばれるようになった。1926年(大正15年)2月に東京横浜電鉄(現東急電鉄)の神奈川線(丸子多摩川 - 神奈川)が開通、開業当初の駅名は「太尾」となったが、1932年(昭和7年)3月の渋谷 - 桜木町間の東横線全線開通時には研究所創設、梅園の観光開発に合わせ、「大倉山」へと改称された。邦彦自身は佐賀県の士族・江原家の出身であり、東京日本橋の紙問屋であった大倉洋紙店(現新生紙パルプ商事)に入社後、創業家に婿入りした人物である。いわば昭和に入ってから東京日本橋を発した氏名が由来となった町名であり、14世紀の記録にも残る「太尾」の名が名実ともに消滅する町名変更には賛否両論が交わされた。横浜市は住民参加による異例の公聴会を開き、市議会はその意見を集約・審議を経た後、町名変更を可決した。公聴会以前に行われた住民アンケートの結果、約65 %が賛成であったが反対も30 %を越えていた。
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