甲斐・鎌倉間の「鎌倉街道」
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「甲斐路」の記事における「甲斐・鎌倉間の「鎌倉街道」」の解説
中世には鎌倉(神奈川県鎌倉市)へ至る諸街道・宿駅が整備され、鎌倉へ向かう諸道は「鎌倉街道」と呼ばれた。甲斐国においては古代官道としての甲斐路が鎌倉へ向かう「鎌倉街道」として機能した。「鎌倉街道」の呼称は江戸時代以降の通称で、中世の呼称は不明であるが、「大道」と呼ばれていた可能性が考えられている。 諸国の「鎌倉街道」の整備に伴い、甲斐・鎌倉間の「鎌倉街道」も整備が行われた可能性が考えられており、笛吹市御坂町上黒駒には「新宿」の地名が残されている。 平安時代後期には甲斐源氏の一族が甲府盆地各地へ進出する。甲斐源氏の一族は治承・寿永の乱において活躍し、源頼朝の鎌倉幕府にも参画する。これにより甲斐国の政治的中心地も後期国府が所在していた笛吹市御坂町国衙から、甲斐国の守護職に補任された甲斐源氏の守護所所在地に移行する。甲斐の守護所所在地は不明であるが、武田信光が本拠とした石和御厨(笛吹市石和町)付近が候補地となっている。同地は笛吹市御坂町国衙の延長線上に位置するため、中世の「鎌倉街道」は古代の甲斐路から大きな道筋の変更はなかったと考えられえている。 承久3年(1221年)の承久の乱では甲斐源氏の一族も参戦しているが、『吾妻鏡』承久3年7月12日条によれば、同年7月12日に武田信光が捕虜となった藤原光親を鎌倉まで連行し、「鎌倉街道」の道中の籠坂峠にあたる「加吉坂」において処刑している。 十二日、甲午、按察卿光親、去年出家、法名西親、者、為武田五郎信光之預下向、而鎌倉使相干駿河国車返辺、依触可誅之由、於加古坂梟首訖、時年四十六云々、(後略) — 『吾妻鏡』承久3年7年7月12日条
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