甲斐・鎌倉間の「鎌倉街道」とは? わかりやすく解説

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甲斐・鎌倉間の「鎌倉街道」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 08:39 UTC 版)

甲斐路」の記事における「甲斐・鎌倉間の「鎌倉街道」」の解説

中世には鎌倉神奈川県鎌倉市)へ至る諸街道宿駅整備され鎌倉へ向かう諸道は「鎌倉街道」と呼ばれた甲斐国においては古代官道としての甲斐路鎌倉へ向かう「鎌倉街道」として機能した。「鎌倉街道」の呼称江戸時代以降通称で、中世呼称不明であるが、「大道」と呼ばれていた可能性考えられている。 諸国の「鎌倉街道」の整備に伴い、甲斐・鎌倉間の「鎌倉街道」も整備が行われた可能性考えられており、笛吹市御坂町上黒駒には「新宿」の地名残されている。 平安時代後期には甲斐源氏の一族甲府盆地各地進出する甲斐源氏の一族治承・寿永の乱において活躍し源頼朝鎌倉幕府にも参画する。これにより甲斐国政治的中心地後期国府所在していた笛吹市御坂町国衙から、甲斐国守護職補任された甲斐源氏守護所所在地移行する甲斐守護所所在地不明であるが、武田信光本拠とした石和御厨笛吹市石和町付近候補地となっている。同地笛吹市御坂町国衙延長線上に位置するため、中世の「鎌倉街道」は古代甲斐路から大きな道筋変更はなかったと考えられえている。 承久3年1221年)の承久の乱では甲斐源氏の一族参戦しているが、『吾妻鏡』承久3年7月12日によれば同年7月12日武田信光捕虜となった藤原光親鎌倉まで連行し、「鎌倉街道」の道中籠坂峠にあたる「加吉坂」において処刑している。 十二日、甲午按察卿光親、去年出家法名西親、者、為武田五郎信光之預下向、而鎌倉使相干駿河国車返辺、依触可誅之由、於加古梟首訖、時年四十云々、(後略) — 『吾妻鏡』承久3年7年7月12日

※この「甲斐・鎌倉間の「鎌倉街道」」の解説は、「甲斐路」の解説の一部です。
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