生業の模索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 06:12 UTC 版)
元治元年、14歳のとき、ござの販売業を営む近江屋の養子となり、経済的に不自由のない身となる。しかし、母親が依然として苦労していることを思い、また、他の家の跡継ぎとなって父親の遺訓に背くのは避けなければならず、養子という身分に安住してはいられない、という考えに至り、慶応3年、17歳のとき、養親に了解をとって実家に戻る。 雲平は、しばらくの間、煎餅を焼くのを手伝い、商品を売り歩いて母親を助けたが、やがて、手に職を付けるために久留米藩の御用長物師、三谷および長谷川に弟子入りして衣服裁縫の技術を学んだ。しかし、同業者が多数存在していたため衣服裁縫の道を断念した雲平は、足袋に着目し、その製造販売を生業とすることを決意した。 明治3年2月(1870年3月)、19歳のとき、足袋の製造技術を学ぶために長崎に赴き、西古川町の川端通りの足袋屋、小川に弟子入りする。明治5年9月(1872年10月)、久留米に戻り、足袋の製造を開始する。
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