独法派の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
法典論争の時点では、1887年(明治20年)に設立された帝国大学法科大学独法科(東大法学部独法科の前身)のほか、私立の獨逸学協会学校(現獨協大学)があって平田東助(商法断行派)などが独法の講義をしていたが、独法派の法律家は極めて少数だったので、法典論争では独立一体の活動をしていない。 「独逸法学が我国に入ったのは日が浅かった為独逸法学派と云ふが如きものは特に存在しなかった」とまで断ずるのは、明治民法起草補助委員仁井田益太郎である(明治26年東大独法科卒、卒業生7名。明治30年は1名)。 獨逸協会学校の勢力は零でした。それに大学の方も漸く明治23年独法科の卒業生を出した位ですから、学派の対立に於てはドイツ法派と云ふものは問題にならなかった。…レースレルは商法を編纂したが…私法に関する思想の根底は民法にあるので、其の思想は商法では喧伝されてゐない。…ドイツに留学した人は司法省の法学校を出た人に沢山ある。田部芳と云ふ人は…民事訴訟法を主として研究した。それから富谷鉎太郎氏等は主に商法をやって居られた。 — 仁井田 …みな民法ぢゃないのですね。 — 平野義太郎 前に述べた人々は民法に就てドイツ法の思想を鼓吹するとか云ふ方には努めても居らないし、又ドイツ法の思想が是等の人から伝はったと云ふ程ではないのです。 — 仁井田
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