片男波部屋の分家独立騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:15 UTC 版)
「二所ノ関部屋 (1909-2013)」の記事における「片男波部屋の分家独立騒動」の解説
1961年(昭和36年)1月場所限りで引退して、以降は二所ノ関部屋の部屋付き親方となっていた年寄・12代片男波(元関脇・玉乃海)は、同年5月に当時の師匠である8代二所ノ関に対して内弟子たちを連れての分家独立を申し入れた。しかし、8代が12代片男波の内弟子たちの移籍に関しては1年待ってほしいと主張したため、とりあえず内弟子の移籍は保留したままの状況で、12代片男波は片男波部屋を創設した。 しかし、1年経っても内弟子たちの移籍が実現しなかったため、12代片男波は1962年5月場所前に内弟子の十両・玉響(元幕内)、十両・玉嵐、幕下・玉乃島(後の横綱・玉の海)たちの移籍届を日本相撲協会へ提出した。これに対抗して8代は、関取2人と幕下・玉乃島および玉兜と未成年者以外の力士全員の廃業届を提出したため、廃業届を出された力士たちは1962年5月場所に出場することができなかった。そこで、先代の師匠である7代二所ノ関が調停に入り、廃業届の取り下げと幕下以下の力士の翌7月場所からの移籍を認めることで両者は合意した。しかし、この時期に既に関取だった玉嵐の移籍は1年後になり、新川(玉響)は移籍することなく廃業した。
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