煮切り干し法の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:13 UTC 版)
大沢権右衛門がもらった3本のサツマイモをきっかけに、遠江国の海岸部ではサツマイモ栽培が大いに広まった。そんな状況の中で、遠江国榛原郡白羽村の農家である栗林庄蔵が、サツマイモの生産や加工に革新を齎した。まず、庄蔵は、生のサツマイモを薄く切って乾燥させる加工法を考案した。こうして生み出された乾物は「白切り干し」と呼ばれ、生のままのサツマイモに比べ保存性が向上した。さらに、白切り干しを粉末状にしたうえで、それを水で捏ねて蒸かし、餅の代用品として「お日和もち」と名付けて江戸で販売した。 さらに庄蔵はサツマイモの加工に試行錯誤を重ねた結果、1824年(旧暦文政7年)、サツマイモを煮てから包丁で薄く切り、それを干して乾燥させる加工法を考案した。この手法は「煮切り干し法」と呼ばれており、こうして生み出された乾物が切り干し芋の原型となった。サツマイモを煮切り干し法で加工すると、保存性が向上するとともに甘みも増大することから、切り干し芋は好評を博した。 もともと遠江国の東部は降水量が少なく、農地を灌水するのも困難なほどであり、農業には困難が付きまとっていた。一方で、遠江国は日照時間が長く、冬になると「遠州のからっ風」と呼ばれる強風が吹くことから、切り干し芋の製造に適した気候であった。その結果、遠江国において切り干し芋の生産は爆発的に普及した。
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