涙の特別競輪初優勝
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藤巻は1973年より北海道へと移籍したが、後にドン、アニイと呼ばれるほど、競輪界の「大御所」として睨みを利かせるようになったのは、この北海道移籍以後からだといっても過言ではない。 先に特別競輪を制したのは藤巻清志のほう(1975年の高松宮杯競輪)で、藤巻は当時いまだ無冠であったが、上述の通り、1976年に前橋競輪場で初めて開催された特別競輪、第19回オールスター競輪にて、ついに「無冠の帝王」を返上するときがやってきた。 もともと追い込みを主体としていた藤巻が、このオールスター開催の1年ほど前あたりから、先行へと戦法を変えていた。普通、追い込みから先行へと戦法を変えるのは至難の業であるが、藤巻は見事にそれをやってのけた。 オールスター決勝では、当年の世界自転車選手権プロ・スクラッチ(スプリント)銅メダルの菅田順和が3連勝で決勝へと駒を進め、完全優勝に王手がかかっていた。 レースは、前で受けていた菅田に対し、藤巻は清志を連れ、ホームから一気に菅田を叩きに出た。この動きに慌てた菅田は1センターでバランスを崩しズルズルと後退。菅田を抑えきった以上、捲ってくる選手もおらず、藤巻はそのまま逃げ切り。2着に清志が入り、特別競輪史上初の兄弟ワンツーフィニッシュを果たしたことで、マスコミが「兄弟仁義」と銘打った。 悲願の特別競輪初優勝を果たした藤巻はレース後号泣に暮れ、清志がやっとこさ支えている状態だった。つまり藤巻という男はドンと呼ばれる一方で、涙脆い男であったともいえる。しかしこの優勝以後、藤巻は本当に息の長い選手として後にも特別競輪等で大活躍することになる。 さらにこの年、藤巻は生涯ただ一度の賞金王に輝いた(5,674万2,000円)。
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