海兵隊の除隊後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:08 UTC 版)
「チャールズ・ホイットマン」の記事における「海兵隊の除隊後」の解説
1963年に軍法会議を待つ間、ホイットマンは日記を書き始めた。題名はDaily Record of C. J. Whitman (直訳すると「C・J・ホイットマンの日々の記録」) である。日記の中では、海兵隊での日常生活や、妻といった家族との交流が記されていた。ほかにも、来る軍法会議についてのことや、海兵隊への侮辱も記されていた。海兵隊の非能率な様を批判していた。妻についての記述では、しばしば妻のことを讃え、一緒に暮らすことを待ち望んでいると記していた。父への経済的な依存から脱却するための努力や計画についての記述もあった。 1964年12月、ホイットマンは海兵隊を名誉除隊した。テキサス大学オースティン校に戻り、建築工学プログラムに進んだ。妻と自分の生活を支えるため、スタンダード・ファイナンス・カンパニー (英: Standard Finance Company) で集金人の仕事をした。後に、オースティン・ナショナル・バンク (英: Austin National Bank) で窓口係の仕事をした。1965年1月、セントラル・フライト・ラインズ (英: Central Freight Lines) で臨時の仕事につき、テキサス運輸省で交通監視人として働いた。オースティン・スカウト・トループ5 (英: Austin Scout Troop 5) でスカウトリーダーのボランティアもした。妻はラニア・ハイスクール (英: Lanier High School) で生物の教師の仕事をした。 ホイットマンが友人たちに後に語ったところによれば、ホイットマンは2度妻を殴ったことがあると話したらしい。ホイットマンは自己嫌悪し、父のようになることを恐れていると告白したという。日記の中で、ホイットマンは自身の行いを悔いており、良き夫として父のように虐待に走らないことを決心していた。
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