派兵と内紛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 04:21 UTC 版)
スコットランドを統治していた盟約派は、「敵の敵は味方」の論理でイングランド議会派と誼を通じるようになり1643年にアーガイル侯の尽力で厳粛な同盟と契約を締結した。議会軍の求めに応じて、盟約軍はカトリック同盟を平定すべくアイルランドに遠征したり、イングランドの国王軍の背後を襲うためにリーヴェン伯と甥のデイヴィッド・レズリー率いる派遣軍がイングランド侵攻も行い、1644年のマーストン・ムーアの戦いにも参戦した。これは平定後、イングランドに「貸し」を作って将来の関係を優位にしたいという思惑があった。しかしこれは後にことごとく共和政府に裏切られる結果となる。 その一方で、長老制を守り抜いて(ほかの2ヶ国と比べれば)平和になったスコットランドでは、盟約軍が結集する意味が薄れてきていた。こうしたなかで盟約軍のなかから、これ以上チャールズ1世と争う必要はないとする者たちが出てきていた。モントローズ侯を中心とする盟約軍穏健派は、スコットランドで得た権力を失うまいとする強硬派のアーガイル侯およびリーヴェン伯らと対立しはじめた。モントローズ侯はチャールズ1世のもとに赴いて国王への忠誠を誓い、派遣軍が留守の間に1644年に挙兵、1645年のインヴァロッヒーの戦い・キルシスの戦いでアーガイル侯ら盟約軍強硬派を破りスコットランドを平定してしまった。盟約軍穏健派は実質国王派となった。 しかしイングランド内戦は議会軍の勝利に終わり、モントローズ侯は戻ってきた派遣軍・アーガイル侯と対立したが戦闘は農繁期で、モントローズ侯のもとにはほとんど兵は集まらず勝負にならなかった。モントローズ侯はレズリーにフィリップホフの戦いで敗れ大陸へ亡命、1650年に再挙を図りスコットランドに戻ったが捕らえられ処刑、スコットランドは束の間、アーガイル侯の執政体制となった。 なお、アーガイル侯は王政復古の後叛徒として処刑され、モントローズ侯は英雄となった。
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