津軽信章越境事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:45 UTC 版)
元禄2年 (1689年)、 4代藩主・津軽信政の異母弟である津軽信章(津軽兵庫)は湯治と称して藩領内の大鰐温泉へ出立、そのまま一族郎党53人を引き連れて出羽久保田藩との藩境にある石の塔を通り、無断で久保田藩へ越境(亡命ないしは逐電)を試みた。連絡を受けた津軽家や幕府の指示で津軽兵庫と一族は久保田藩から弘前藩へと呼び戻され、家族は別れ別れにされて生涯蟄居の身となった。一族は待遇面でも経済面でも苦しく、悲惨な最期を遂げた。 越境の理由にはいくつかの説があるが、藩主の信政との不和や、山鹿系家臣を優遇する信政の偏った人事に対する不満から、津軽藩を出て久保田藩ないしは紀州藩に仕えようとした、などと言われている。
※この「津軽信章越境事件」の解説は、「弘前藩」の解説の一部です。
「津軽信章越境事件」を含む「弘前藩」の記事については、「弘前藩」の概要を参照ください。
- 津軽信章越境事件のページへのリンク