津軽家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:28 UTC 版)
津軽信建は関ヶ原で三成の遺児・石田重成と荘厳院を救出、弘前藩主には石田三成の血をひくものがおり(津軽信義・津軽信政など)、浅野氏はその三成を襲撃した七将のひとりでもある。 弘前藩の支藩(分家)である黒石藩(当時は大名ではなく旗本)の当主・津軽政兕は、事件直後に真っ先に自身の家臣や弘前藩士らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力したと伝わる。 重臣の乳井貢が元禄赤穂事件を激しく批判する著作を発表したり、赤穂浪士に同情した北村主水を宝永5年(1708年)に閉門、知行(1000石)没収の厳罰に処し、供養塔の破却を命じたりしている。また家中には大石良雄の一族もいたが、厚遇されている山鹿系家臣と対立し、騒動も起きている。
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