法願寺村
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「高木 (さいたま市)」の記事における「法願寺村」の解説
江戸期は武蔵国足立郡指扇領に属する法願寺村(ほうがんじむら)であった。法眼寺村とも称された。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では27石余(田18石余、畑8石余、野銭永199文)、『元禄郷帳』では22石余、『天保郷帳』では20石余であった。助郷は中山道上尾宿に出役していた。化政期の戸数は4軒で、村の規模は東西2町、南北1町余であった。村域は高木村の南東部(木之下村の飛地の東側、北野貝戸村の南側、福田陣屋跡周辺)に当たる。地名の起源は定かではないが、当地にが建立されていたと云われていたことに因む。なお今日の日蓮宗法光寺およびその地蔵堂の旧称は法願寺であるが、当村との関係は不明。 1590年(天正18年)より知行は旗本三宅氏。 1596年(慶長元年)より幕府領となる。1623年(元和9年)より知行は旗本山内氏。 1689年(元禄2年)は再び幕府領。検地は1694年(元禄7年)に実施。 1828年(文政11年)より上尾宿寄場66か村組合に所属していた。 1868年(慶応4年)6月19日 - 武蔵知県事・山田政則(忍藩士)の管轄となる。 1869年(明治2年)1月13日 - 武蔵知県事・宮原忠英の管轄区域に大宮県を設置。県庁は東京府馬喰町に置かれる。 9月29日 - 県庁が浦和に置かれ浦和県に改称。 1871年(明治4年)11月13日 - 埼玉県の管轄となる。
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