木之下村とは? わかりやすく解説

木之下村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 14:24 UTC 版)

高木 (さいたま市)」の記事における「木之下村」の解説

江戸期武蔵国足立郡指扇領に属する木之下村(きのしたむら)で、古くは高鼻荘に属していたと云われている。木之下村は『武蔵田園簿』では「木ノ下」とも記される村高正保年間の『武蔵田園簿』では351石余(田146石余、畑204石余、野銭永683文)、『元禄郷帳』では301石余、『天保郷帳』では320石余であった助郷中山道上尾宿出役していたが、正徳安永年間日光御成街道大門宿にも出役していた。化政期戸数33軒で、規模東西7町余、南北30であった村域高木村最北部に当たり、木之下村の飛地が最西部分れていた。地名小城跡があるところに多く見られる「キ」が用いられている。荒川流作場領していた。 1590年天正18年)より知行旗本三宅氏検地1694年元禄7年)に実施1596年慶長元年)より幕府領となる。1623年元和9年)より知行旗本山内氏1689年元禄2年)より再び幕府領1705年宝永2年)より知行旗本戸田氏流作場検地1744年延享元年)に実施1828年文政11年)より上尾宿寄場66村組合所属していた。 1869年明治2年12月2日 - 旗本領が上知され、浦和県管轄となる(府藩県三治制参照)。 1871年明治4年11月13日 - 第1次府県統合により埼玉県管轄となる。

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