泉岳寺への引き上げ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
吉良上野介を討った浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かった。 一行は回向院に開門を拒絶された後、正面からの上杉家、後方からの津軽家の追手を警戒、両国橋は渡らず南下して永代橋を通過。築地では織田家下屋敷を避け、軽子橋を渡り築地川の対岸を通った。鉄砲洲にて奥平家の尋問に遭い赤穂藩邸跡には近づけなかった。 愛宕下でも伊達家に中屋敷通行を阻まれ、通街筋(源助丁から露月丁)に迂回して金杉橋を通行した。 なお金杉橋の手前、宇田川橋を左手に見るあたりで、吉田忠左衛門と富森助右衛門の二人が大目付の仙石伯耆守に討ち入りを報告すべく隊を離れた。また、寺坂吉右衛門も理由は分からないがどこかに消えた。寺坂が隊を離れた理由は古来謎とされている(#寺坂吉右衛門問題)。札の辻を経て泉岳寺に至る。 泉岳寺についた一行は粥の振る舞いを受け、内匠頭の墓前に上野介の首を供え、一同焼香した。 上野介の首と共に内匠頭の遺品の小刀も供えられた。鞘から抜かれた小刀は、軽く三度上野介の首に当てられた。この儀式をそこにいた浪士全員が行った。近松行重が書いたとみられる記録では、上野介を墓前にお連れしたと記載し、内匠頭自身がそれを討って悔いを晴らしたとする。長矩の小刀は泉岳寺の住職・酬山が売却してしまい現存しない。また、当該住職は義士に行水も使わせず、のちにその墓所も荒廃させてしまう。
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