河内方面の情勢とは? わかりやすく解説

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河内方面の情勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 08:38 UTC 版)

八尾・若江の戦い」の記事における「河内方面の情勢」の解説

豊臣方は、大坂城大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況になっていた。幕府軍河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城迫った河内方面隊は藤堂高虎井伊直孝先鋒とし本多忠朝前田利常松平忠直など総勢55,000の兵で構成されており、立石街道から道明寺向かっていた。そのあと徳川家康秀忠本営続いた5月2日豊臣軍では、河内口から来る幕府軍対し大坂城東方大部隊の機動には適さない低湿地帯迎撃することにし、木村重成の兵6,000大坂城出発した長宗我部盛親増田盛次の兵5,300もそのころに出発した思われる5月5日朝、木村重成今福方面視察し、こちらに幕府軍来襲する可能性は低いと見た。そこで徳川家康秀忠本営側面から迫るべく、若江に兵を進めることにした。 5月6日木村重成午前0時頃には出発したい考えていたが、兵の集結が遅れ、午前2時頃にようやく出発できた。途中道を間違え沼地立ち往生するなど、木村自身や兵の練度問題があり、進軍順調にはいかなかった。 午前1時、井伊直孝部隊命令して食事取らせ進軍の命を待たせた午前4時頃、藤堂勢の右先鋒藤堂良勝若江に向かう豊臣軍発見した幕府軍勝手な戦闘は慎むよう命令されていたが、藤堂高虎は良勝の「豊臣軍は、家康秀忠本営への攻撃企図しているのではないか、ただちに攻撃するべきだ」という進言をうけ開戦決断各隊進撃命じた

※この「河内方面の情勢」の解説は、「八尾・若江の戦い」の解説の一部です。
「河内方面の情勢」を含む「八尾・若江の戦い」の記事については、「八尾・若江の戦い」の概要を参照ください。

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